三田文学

沢木四方吉時代(1916.6~1925.3)

和泉 司

 1916(大正5)年、初代編集長であった永井荷風が『三田文学』の運営方針を巡って慶應義塾当局と対立し、教授職を辞した後、三田文学会主幹は同年3月にフランス留学を終え、慶應義塾大学部文学科の教員に着任したばかりの沢木四方吉に引き継がれた。
 第一次世界大戦中であった欧州から戻った沢木主幹の下、『三田文学』誌上には太宰施門、竹友藻風、井汲清治等の文芸評論が目立つようになった。これには、沢木自身が日本における最初期の西欧美術史家として慶應義塾で教鞭を執っていたことが影響しているであろう。先に挙げた井汲清治や、沢木主幹時代の『三田文学』に頻繁に寄稿した南部修太郎、小島政二郎、宇野四郎、三宅周太郎等は、帰国後の慶應義塾における沢木の教え子でもあった。後の水上時代の『三田文学』を支えた作家・編集者の勝本清一郎もまた、沢木の着任と同時に設置された美術史科の第一期生であった。このように、慶應義塾の文学科教員を中心とした執筆者、並びにその教え子たちによる評論、随想が増え、アカデミックな様相を呈するようになったのが、この時期の『三田文学』の特徴の一つである。また、沢木とほぼ同時期にアメリカ、ヨーロッパに留学していた水上瀧太郎も1916年に帰国し、明治生命に就職していたが、同年12月号から随筆「海上日記」の連載を始めていた。この水上もまた、沢木とは慶應普通部時代からの知己であり、友人であった。水上は、この沢木主幹時代の1918(大正7)年1月号から、その代表作である随筆「貝殻追放」の連載も開始している。

 『三田文学』の記事が学術寄りになったのには、1920(大正9)年に、慶應義塾が正式に「大学」となったことも影響していると考えられる。それまで、卒業生に学位を授与する権限を持っていたのは帝国大学に限られていたが、明治末から大正期にかけての進学率の上昇に伴い、旧制高校と大学数の不足が懸念されたため、政府は1918年に高等学校令を改正し高等学校を増設し、1919年には大学令を公布して、国公立専門学校や私立学校の大学化を認めたのである。この結果、慶應義塾は慶應義塾大学となり、それまでの「学科」を「学部」に改組し、文・経済・法・医の四学部を抱える総合大学となったのである。そして、『三田文学』主幹の沢木はこの時文学部教授となった。
 主幹の沢木自身は「沢木梢」の筆名を用いて『三田文学』に寄稿し、欧州滞在記、美術史評論を発表していた。また「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の連載も行った。それらは後に『美術の都』『レオナルド・ダ・ヴィンチ その前半生』として出版され、両書は沢木の代表的著作となる。
 『三田文学』創刊当初から寄稿していた野口米次郎(当時、英米文学科教授)は、この時期も引き続き誌面に登場している。当初は英語詩が主だったが、荷風主幹時代末期から評論・随想が多くなり、沢木主幹時代は殆どが評論・随想で、詩作の発表はわずかとなっていた。慶應義塾大学三田キャンパスにあった萬来舎は、父である野口がかつて教鞭をとっていた慶應義塾を訪れたイサム・ノグチがデザインしたものである。
 また、荷風の推薦により、『三田文学』誌上にデビュー作を発表していた邦枝完二は、この時期も断続的に短編小説を発表していた。その多くは短編の時代小説で、後の人気時代小説家の萌芽の時期を、ここに見ることができる。

 この沢木時代の『三田文学』は、1925(大正14)年3月号をもって突然休刊という事態を迎えた。編集主幹の沢木は当時病気療養中で大学も休職していたが、塾側の休刊決定について、彼には事前の相談もなかった。病中の沢木は、親友であり当時の『三田文学』の「精神的支柱」でもあった水上を後任の主幹にして刊行継続を求めたが、塾側は塾の教職員以外の人物を主幹に据えることを拒んだという。水上は、1926(大正15)年に『時事新報』紙上で『三田文学』休刊の事情に触れているが、水上の見解は、永井荷風を喪い塾側の熱が冷めたこと、沢木時代には塾からの補助金が横ばいで、満足な原稿料が払えなくなったこと、そのために一流の作家の原稿が望めなくなったこと、沢木が文学・哲学・美術に特化した雑誌にする改革案を提示したが、才能のある哲学者が若くして世を去ってしまったこと、などを挙げている。

■編集担当者について
▼沢木四方吉 1886(明治19)~1930(昭和5)年
 現在の秋田県男鹿市生まれ。沢木梢、若樹末郎、LL生の筆名がある。生家は資産家で、沢木は兄弟達と同じ慶應義塾へ進学した。兄たちは理財科に進んだが、末子で体の弱かった沢木は文学科に進むことが許された。1906(明治39)年に慶應義塾本科文学科へ進んだ四方吉は、三年次に『三田評論』に評論、小説を続けて発表し(1908年)文名を挙げ、この頃から一学年下に在籍していた小泉信三との交友も始まった。
 1909(明治42)年、慶應義塾大学部を卒業すると、沢木は普通部の英語教員として採用された。この年5月、『三田文学』が創刊され、沢木は「沢木梢」の筆名で同年8月号・10月号に「ニィチェの超人と回帰説」を寄稿している。
 1912(明治45)年には、文学科留学生としてドイツへ派遣された。この留学は3年8ヶ月間に及び、その途中に第一次世界大戦が勃発し、同じくドイツに留学中であった小泉等と共に危ういところでロンドンへ脱出するといった出来事もあった。1916(大正5)年、帰国した沢木は慶應義塾大学部と予科の教員となり、同年、永井荷風に代わって『三田文学』の編集主幹に就任した。1920(大正9)年、大学となった慶應義塾大学文学部の美術史科教授となる。一方、『三田文学』等で発表してきた論文・評論をまとめた『美術の都』(1917年)『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1925年)『ギリシャ美術概観』(1929年)といった著書も発表した。
 しかし、留学時代からよくなかった病が悪化し一時休職、その間に『三田文学』は休刊(1925年3月)となり、沢木は主幹を辞すことになった。その後、復職・休職を繰り返したが、病状は好転せず、1930(昭和5)年、43歳の若さで死去した。
参考:渡辺誠一郎『俊秀 沢木四方吉』(秋田魁新報社 1985年)

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