オンライン版 大平正芳関係文書

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解題

目 次
大平正芳記念財団旧蔵 「オンライン版 大平正芳関係文書」
刊行にあたって
福永 文夫(獨協大学教授)
解題 I 小池 聖一(広島大学教授)
解題 II 福永 文夫(獨協大学教授)
史料紹介 大平正芳関係文書所蔵「取材メモ」について 石田 雅春(広島大学准教授)

大平正芳記念財団旧蔵 「オンライン版 大平正芳関係文書」
刊行にあたって

福永 文夫(獨協大学教授)

 大平正芳記念館(香川県観音寺市坂本町)は2015(平成27)年3月31日に老朽化のため閉館した。同記念館は大平正芳元首相死去から5年後の1985(昭和60)年6月、大平記念財団設立を機に選挙事務所だった建物を改装・増築して開館した。鉄筋コンクリート2階建てで、読書家としても知られた大平氏の蔵書約1万5千冊や遺品、文献などの関係資料を収集・展示してきた。閉館に先立って、政治に関する文書・文献は国立国会図書館憲政資料室に、大平文庫は香川県立図書館に寄贈された。なお大平記念館は、2016年11月5日観音寺市の琴弾公園コインの館2階に、リニューアル・オープンされた。主に写真や映像でその履歴を紹介している。

 ここでは、平成12年3月から同15年11月まで、本文書の調査・整理に当たった小池聖一広島大学教授(執筆当時、助教授1))による「解題」および石田雅春広島大学准教授(執筆当時、博士課程後期)による「史料紹介」2)に加え、その後加えられた資料に関する解題(執筆、福永文夫)を掲載する。なお、本文中に記載の資料点数は財団で所蔵していた原資料の点数であり、今回のオンライン版の収録点数と異なる点にご留意されたい。本オンライン版では、小池教授のまとめられた「8. 夫人日誌(24文書)」、「14. スクラップ関係(86文書)」、「15. メディア資料(252本)」、「18. 履歴関係(75文書)」、「19. 芳名帳(採録せず)」および「津島寿一関係文書」は収録せず、その他、個人情報や稀少性の観点から、収録を見合わせた資料もある。「森田一秘書官日記」(『大平正芳秘書官日記』(東京堂出版、2018年)として復刻)も収録対象外である。また、参考として、解題末尾に「14. スクラップ関係」の標題目録を付す。

  • 1)本文中の肩書はいずれも執筆当時のものである。
  • 2)平成15年度科学研究費補助金基盤研究(B) 研究成果中間報告書『大平正芳記念館所蔵 大平正芳関係文書目録』所収。

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解題 I

小池 聖一(広島大学助教授)

はじめに

 大平正芳記念館所蔵大平正芳関係文書は、第68代内閣総理大臣・大平正芳氏(以下、敬称略)の生涯とともに生成された。本文書群は、昭和55年(1980年)6月12日、大平正芳が現職の総理大臣のまま急逝(享年70歳)したのちも、旧大平正芳事務所のメンバ一を中心とする大平正芳回想録刊行会、財団法人大平正芳記念財団によって収集され、形成され続けている。そして、大平正芳関係文書の一部は、旧大平正芳事務所を改装した大平正芳記念館において現在、無料で展示に供されている。

 本目録は、大平裕氏、衆議院議員森田一氏および大平正芳記念財団のご許可、大平正芳記念館館長加地淑久氏、大平剛氏等のご好意により、大平正芳記念館所蔵の大平正芳関係文書を整理のうえ作成したものである。調査および整理は、平成12年3月30日から平成15年11月18日まで、延べ30日間・人員83名でおこなった1)。そして、平成15年度文部科学省科学研究費補助金、基盤研究(B)一般「大平正芳関係文書の整理・公開・保存および研究基盤の創出に関する調査研究」(代表:小池聖一)をうけ、中間報告書として作成したものである。

 現在に至るまで資料の収集が図られ続けていることは、大平正芳のもつ求心力がいまだに維持され、その理想や構想が今に生きているからに他ならない。本目録も、大平の理想や構想を明らかにする一つの階梯に位置するものなのである。

1. 大平正芳関係文書の来歴

昭和49年(1974年)1月12日、世田谷区瀬田の大平邸が全焼、数千の書籍とともに多くの関係文書も灰儘に帰した。

 このため、大平正芳文書の中心となったであろう多くの文書が失われたが、それでも大平は、以後の文書とともに本目録にあるように、郷里香川県観音寺市の大平正芳事務所(以下、大平事務所と略記)を中心に多くの文書を残した。そして、昭和55年(1980年)6月12日、大平正芳が現職の総理大臣のまま急逝(享年70歳)したのち、旧大平事務所のスタッフを中心に大平正芳回想録刊行会が結成され、多くの資料が集積されたのである。

 結果、大平正芳関係文書は、次の四つの文書群で構成されることとなった。

 第一は、大平事務所が所蔵していた書類である。内容は、「1. 日記(2)大平正芳日誌」、「2. 大平事務所日誌、日程関係」「6. 大平事務所関係書類」「7. 選挙関係」「10. 外務大臣期」「11. 大平事務所作成ファイル」「12. 大平正芳原稿」「14. スクラップブック」「15. メディア資料」「16. 芳名録」等であり、大平事務所の日常的な作業としての日誌・日程表、大平正芳関係のスクラップブック、陳情・請願から選挙関係までの書類である。大平事務所での政治家大平正芳を実感させる文書群が含まれている。「11. 大平事務所作成ファイル」および「12. 大平正芳原稿」がそれに相当し、大平正芳によるメモおよび各種原稿等を所収している。このような原稿類が大平事務所で多数保管されたのは、大平事務所が著書および後援者向けの小冊子『碩滴』の編集作業をおこなっていたためである。前者の「11. 大平事務所作成ファイル」は、荒井喜平氏が整理したもので、大平正芳関係文書の中核的な史料群の一つである。なお、「10. 外務大臣期」とある資料群は、昭和37年の第一次外務大臣期における対報道機関用資料であり、当該期の秘書官がまとめたものと考えられる。

 また、「14. スクラップブック」および「15. メディア資料(1)旧大平事務所所蔵メディア資料」等は、旧大平事務所によって適宜収集・採録された資料群である。

 第二が、大平正芳周辺で派生した文書群である。「1. 日記」中の森田一氏による秘書官日記、「3. 書簡」、大平志げ子夫人の「8. 夫人日誌」および「20.大平記念財団所蔵大平正芳関係文書」等の私文書を中心とする文書群である。他に、「17. 雑」にも、大平の「死亡診断書」等の関係文書等が含まれている。「17. 雑」は、大平正芳記念財団から大平記念館に移管された同財団運営資料群中に含まれていたものである。

 「3. 書簡」は、瀬田の自宅が焼失後に大平事務所および大平正芳宛の首相就任祝等の書簡が中心である。また、「20. 大平記念財団所蔵大平正芳関係文書」は、大平志げ子夫人が最後まで保管し、財団に寄贈され、大平記念館に移管された大平正芳宛書簡を中心とする文書群である。

第三は、大平正芳の没後に収集された資料群である。「4. 伝記資料及び草稿」「5. 書類」「9. インタビュー関係」等は、大平正芳の回想録等作成のために収集された。このうち、「4. 伝記資料及び草稿」は、『大平正芳回想録』執筆にあたり、収集された多量のコピ一を含む資料群であり、「5. 書類」は、福川伸次元通産事務次官が保管していた大平首相秘書官時代の書類を中心とする文書群である。同様に「9. インタビュー関係」は、回想録執筆のためになされたもので、大平正芳の親族から大平に関係した政財官界関係者におよぶ膨大なインタビュー記録である。「12. 大平正芳原稿(1)「潮の流れを変えよう」原稿」は、宏池会事務局で保管していた文書と考えられ、『大平正芳回想録』等の作成にあたって移管されたものと考えられる。また、「13. 大平正芳追想(2)『去華就実』原稿」は、平成12年6月12日、大平正芳記念財団から大平正芳没後20周年を記念して『去華就實』を刊行するにあたり、新たにおこなったインタビュー原稿によって構成されている。同様の原稿としては、大平正芳の一周忌に編纂された『大平正芳回想録 追想編』(大平正芳回想録刊行会、昭和56年6月12日刊行)の原稿をあげることができる(「13. 大平正芳追想(1)追想編原稿」)。

第四は、大平記念館開館時に寄贈された「津島寿一関係文書」である。郷土の先輩で大平に大蔵省入りを勧めた元蔵相津島寿一の関係文書であり、日記と書簡、履歴関係の文書を所収している。

2. 大平正芳関係文書の各項目概要

大平正芳関係文書は、各項目の収蔵文書の概要は、次のようなものである。
大平正芳関係文書は、総点数3,802点、2,722文書(別に津島寿一関係文書71点)、写真72点、メディア資料291本である。

 

1. 日記(010000000)(35文書)

(1)森田一秘書官日記(010100000)(30文書)
本日記は、森田一氏により、市販の日記帳に記載されたものである(6文書)。内容は、大平正芳の代議士としての行動記録であり、秘書であった森田氏の備忘録でもある。期間は、昭和47年(1972年)7月7日から、昭和51年12月7日までの日記である。他に「予定表」「週間日程」等を含んでいる(24文書)。昭和47年9月25日~9月29日までの「訪中日記」も所収している。

(2)大平正芳日誌(010200000)(5文書)
 A4冊子(The Economist DIARY)に鉛筆書で書かれている。昭和39年から昭和43年までの大平の自筆日誌であるが、森田一著『最後の旅』(行政問題研究所、昭和56年)所収の大平正芳日記が大平自身の所感や読書の感想などが書かれているのと違い、予定等が断片的に書かれているものである2)

 

2. 大平事務所日誌・日程関係(020000000)(26文書)

 外務大臣就任直後の昭和37年7月20日から昭和55年7月16日までの大平事務所で作成された大平正芳の行動を理解することができる日誌および日程表である。大臣期は、特に詳細に記述されている。

 

3. 大平正芳書簡(030000000)(132文書、64点)

 所収されている書簡の多くは、来往関係を有する書簡ではない。また、個別に保管されている写真についても所収したが、これ以外にも膨大な数の首相期を中心とする写真帳が存在している。しかし、作成時期の確定を含め膨大な作業量を必要とするため、今回は整理の対象としなかった。

(1)第二次大平内閣成立祝関係(030100000)(17文書)
 第二次大平内閣成立祝(昭和54年11月9日)の書簡で、内訳は葉書(9文書)、封書(8文書)である。

(2)大平志げ子関係(030200000)(17文書)
 大平正芳夫人志げ子が所蔵していた資料群である。内容は、写真、電報(3文書)、書簡(9文書)である。

(3)大蔵大臣関係(030300000)(43文書)
 昭和49年7月16日から同51年12月24日まで大蔵大臣期(田中・三木内閣)の大平正芳蔵相宛書簡を所収している。

(4)見舞電報(030400000)(8文書)
 昭和55年5月30日、衆参同時選挙の参議院選挙出陣式で体調が悪くなり、翌日入院。6月2日に大平首相の入院が明らかにされると見舞電報と見舞状が多数寄せられた。ここでは見舞電報のリスト等を所収している。

(5)見舞状(030500000)(45文書)

(6)写真①(030600000)(5点)

(7)写真ネガフィルム(030700000)(6点)

(8)写真②(030800000)(53点)
 回想録等で使用された大平正芳関係の代表的写真を所収している。

(9)展示書簡(030900000)(2文書)
現在、大平正芳記念館二階の展示室にて公開されている書簡。池田勇人宛吉田茂書簡、大平正芳・宮沢喜一宛津島寿一書簡の2点。

 

4. 伝記資料及び草稿(040000000)(1,079文書、写真6点)

 旧大平事務所のスタッフを中心に構成された大平正芳回想録刊行会が、『大平正芳回顧録 伝記編』(昭和56年)執筆のため収集した資料群である。コピー等の複製品が中心であるが、「5. 書類」の福川資料の一部も混入している。また、後述のインタビューを書き起こしたものや、大平正芳自身が行い雑誌等に掲載されたインタビューや会談録・大平正芳に関連する新聞・雑誌記事等が網羅的に所収されている。

 原文書が財務省財政金融センター財政史室にある大平の手による「東久邇宮内閣大蔵大臣日誌」(昭和20年8月17日~10月8日)の写、福川秘書官(当時)の「総理時代日程」、外務省調書、記者の取材メモ等も所収している。

 

5. 書類(050000000)(144文書)

大平正芳首相秘書官であった元通産事務次官福川伸次氏より、回想録執筆にあたり寄贈を受けた文書群である。

(1)瀬戸大橋関係(050100000)(10文書)
 昭和42年7月19日、当時、無役であった大平は、衆議院建設委員会で本四架橋問題について質問している。本事項目所載の文書には、質問準備に使用したと思われるものも含んでいる。なお、同質問に関する大平の原稿等は、「11. 大平事務所作成ファイル」中の「アイデンティティについて他」(110400000)および「3. 挨拶状原稿抄録その他昭和四十年度」(111600000)中にも存在している。また、本件は、後に大平の著書『旦暮芥考』(昭和45年)に採録されている。

(2)解散問題(050200000)(5文書)
 首相の解散権に関する保利(茂)見解をめぐる資料群である。昭和54年5月の衆議院本会議での質問に備えたものである。

(3)東京サミット(050300000)(12文書)
 昭和54年6月に日本で開かれた先進国首脳会議(サミット)に関する資料群で、通産・外務両省で作成された説明資料、各宣言案等を含んでいる。

(4)大平総理会合資料(050400000)(3文書)
 大平会等および政治・経済各担当新聞記者等との懇談会案内等を含んでいる。

(5)特別国会所信表明(050500000)(6文書)
 昭和54年10月・11月の第89回および第90回国会での大平首相の所信声明の草稿・原稿を所収している。

(6)政治資金疑惑再発防止(050600000)(4文書)
 「航空機疑惑問題等防止対策に関する協議会」関係文書および各種意見を含むロッキード問題関係の文書を所収している。

(7)社公民連合政権構想(050700000)(18文書)
 自由民主党調査局政治資料研究会議による日本社会党・公明党・共産党分析および社公民連立政権構想批判の冊子および大平周辺のこれへの対応に関する文書を所収している。

(8)内閣不信任、記者会見関係(050800000)(4文書)
 昭和55年5月16日の大平内閣不信任案可決に伴う記者会見関係文書を所収している。

(9)葬儀関係(050900000)(7文書)
 昭和55年7月9日、日本武道館において行われた「故大平正芳内閣・自由民主党合同葬儀」葬儀関係文書を所収している。

(10)訪米等関係(051000000)(13文書)
 昭和55年4月30日から5月10日までの大平首相アメリカ・メキシコ・カナダ歴訪に際し、通商産業省で作成した諸文書を所収している。

(11)第87国会施政方針演説作成資料(051100000)(2文書)
 昭和54年1月の第87国会施政方針演説関係文書および昭和54年9月の衆議院解散関係の諸文書等を所収している。

(12)大平総理入院状況(051200000)(3文書)
 昭和55年5月30日からの病状経過報告、病床にあった大平首相との会見メモ等を含んでいる。

(13)第91国会施政方針演説作成資料(051300000)(2文書)
 昭和55年1月の第91国会施政方針演説に関する文書(案を含む)を所収している。

(14)第88国会施政方針演説作成資料(051400000)(2文書)
 昭和54年9月3日の第88国会施政方針演説に関する文書(案を含む)およびこれに対する識者の意見等の文書を所収している。

(15)行政改革(051500000)(6文書)
 特殊法人の統廃合を中心とした大平内閣期の行政改革に関する文書を所収している。

(16)中国出張(051600000)(2文書)
 昭和54年12月の大平訪中に関連して通産省で作成された関係文書を中心に所収している。

(17)訪米発言要領関係(051700000)(22文書)
 昭和54年4月30日から5月7日までの大平首相訪米に際して、大平・カーター会談用に外務省が作成した発言要領を中心に所収している。

(18)大平入院後の新聞記事(051800000)(2文書)
 大平入院後の新聞記事切抜き等を所収。

(19)大平首相対談関係(051900000)(4文書)
 大平首相のテレビ対談関係文書を所収している。

(20)その他(052000000)(17文書)
 昭和54年4月30日から5月7日までの大平首相訪米関係文書および訪中等外遊関係文書その他雑多な文書を所収している。

 

6. 大平事務所書類(060000000)(17文書)

 本項目では、大平事務所で行われていた日常的活動に関する書煩を所収している。

(1)一般書類(060100000)(4文書)
 「一般書類」は、香川二区の地域住民および後援会関係者からの陳情等を記戟している書類である。日付、陳情者の氏名、住所、内容等が丁寧に記載され、大平事務所としての対応も記されている。なお、結果については赤ペン書で記載されている。

(2)恩給関係(060200000)(6文書)
 軍人恩給・傷病恩給・遺族年金等に関する簿冊である。

(3)参考書類(060300000)(2文書)
 国会での質問に関する参考書類を所収している。

(4)事務所原稿等(060400000)(4文書)
 事務所に置かれていた原稿綴等を含んでいる。

(5)その他(060500000)(1文書)

 

7. 選挙関係(070000000)(95文書)

昭和27年10月1日、大平が自由党公認候補として衆議院に初当選した第25回総選挙に関する書類から、急逝した昭和55年6月の選挙までの諸書類を所収している。具体的には、遊説計画宣伝車・個人演説会弁士の日程表、選挙運動費用収支報告書、領収書等の簿冊を所収している。また、選挙に関連する大平の原稿等も所収している。本書類については、所収している文書が多数にのぼり、細目録化が事実上不可能なため、簿冊を一文書としている。

 

8. 夫人日誌(080000000)(24文書)

大平正芳夫人志げ子氏の手帳型の日程表を中心に所収している(昭和48年~平成2年)。本手帳等には、随所に支援者に関する記述などがある。

 

9. インタビュー関係(090000000)(199文書、39本)

『大平正芳回想録』三部作(大平正芳回想録刊行会、昭和56年6月12日~昭和57年6月12日)の作成過程で行われた旧大平事務所関係者によるインタビュー録である。

(1)インタビュー原稿(090000000)(132文書)
 『大平正芳回想録』特に、伝記編作成のため行われたインタビュー録で、伝記編作成のため書き起こされたものである。「4. 伝記資料及び草稿」内にも執筆に使用するため本インタビュー原稿が執筆該当部分に含まれている。

(2)インタビュー録(カセットテープ)(090100000)(109本)

(3)インタビュー録2(カセットテープ)(090200000)(39本)

(4)インタビュー原稿2(090300000)(67文書)
 本インタビュー原稿は、『去華就實 聞き書き・大平正芳』(大平正芳記念財団編、平成12年6月12日)のために行われたものを中心としている。

 

10. 外務大臣期(100000000)(7文書)

昭和47年から同49年までの二度目の外務大臣期の書類である。内容は、大臣の記者会見および記者懇談会の内容とその際、開示された資料を外務省ファイルで綴ったものである。本ファイルについては、本来は、細目録すべきであったが、内容的および時間的な問題から付していない。

 

11. 大平事務所作成ファイル(110000000)(636文書)

本ファイルは、荒井喜平氏が作成したものである。

(1)「東京商大入学後の住所他」(110100000)(50文書)
 昭和10年~58年まで大平正芳関係の文書を所収している。「イエスの僕会」関係文書、公職追放非該当確認書、書簡等が含まれている。

(2)「1 挨拶状原稿抄録その他昭和三十年度」(110200000)(55文書)
 昭和31年から39年までの大平正芳の原稿を中心に所収している。大平正芳による「政局混迷の原因」(昭和34年)、「前尾繁三郎論」(昭和32年9月1日)、「池田さんの入閣と政局」(昭和33年6月)、「私はなぜ長欠児童に関心を持つか」(昭和37年8月1日)等の原稿と、各種挨拶状の原稿を所収している。

(3)「1 祝辞・弔辞」(110300000)(30文書)
 昭和40年から同51年までの大平自身による祝辞および弔辞の原稿を中心に所収している。これらの幾つかは、大平事務所が編集した小冊子『硯滴』に採録されている。

(4)「アイデンティティについて他」(110400000)(38文書)
 昭和43年から同53年までの大平自身による各種原稿、「アイデンティティについて」、「代表質問(案)」(昭和43年1月30日)、「ナショナリズムの新たな展開」(昭和45年5月13日)、「宏池会の会長就任の挨拶」(昭和46年4月17日)、「選挙公約原稿」(昭和43年11月13日)、昭和53年の政党支持率関係文書等を所収している。

(5)「4 挨拶状原稿抄録その他昭和四十年度」(110500000)(44文書)
 昭和46年から49年までの年賀状等挨拶状の原稿を中心に所収しているが、挨拶文のなかにも大平の政策志向性を読むことができる。また、「平和国家の行動原則」草稿(昭和47年)等も所収している。

(6)「辞令等」(110600000)(19文書)
 昭和49年から同51年までの辞令を中心に所収している。「内閣人事異動通知書辞令書」および各種委員任命書等が中心である。

(7)「挨拶状原稿抄録その他昭和五十年度」(110700000)(52文書)
 昭和50年から同55年までの年賀状等挨拶状の原稿を中心に所収している(内閣総理大臣就任関係を多く所収している)。また、「わが党政策の重点」(昭和50年1月)等の文書も含んでいる。

(8)「(1)クリスマス・年賀カード大蔵大臣当時総理大臣当時その他」(110800000)(33文書)
 昭和51年・同52年の大平正芳宛各国首脳等からのクリスマス・年賀カードを所収している。

(9)「(2)クリスマス・年賀カード外務大臣当時総理大臣当時その他」(110900000)(31文書)
 昭和37年・同38年および昭和51年から同54年までの大平正芳宛各国首脳等からのクリスマス・年賀カードを所収している。

(10)「ご案内状その他」(111000000)(13文書)
 首相期(昭和54年・同55年)に各国首脳を招待して行われた午餐会および園遊会等の招待状等を所収している。

(11)「大平夫人を励ます会ほか」(111100000)(19文書)
 大平正芳逝去後の関係文書を所収している。「大平会記録」(昭和38年9月24日~昭和55年7月15日)、「お知らせ 大平夫人を励ます会」(昭和55年9月)等を含んでいる。

(12)「『大平公園』命名式ほか」(111200000)(11文書)
 昭和56年、メキシコに設置された『大平公園』関係文書、大平志げ子宛書簡を所収している。

(13)「辞令」(111300000)(57文書)
 昭和12年3月23日付「大蔵省辞令」から昭和20年8月19日付「辞令」(大蔵大臣秘書官、高等官三等)、昭和35年7月18日付「辞令」(国務大臣)、昭和53年12月7日付「辞令」(内閣総理大臣)等を含んでいる。

(14)「2 弔辞・追慕・序文」(111400000)(51文書)
 昭和33年から同54年までの弔辞・追慕・序文の原稿を中心としている。「タイ特別円問題」・「安保論議について」などの原稿も所収している。

(15)「2 挨拶状原稿抄録その他 昭和四十年度」(111500000)(27文書)
 昭和39年10月25日から昭和43年11月30日までの挨拶状等の大平自身による原稿を所収している。「ジョンソン米大統領のベトナム和平演説に関する緊急質問(案)」(昭和43年4月4日)等も所収している。

(16)「3 挨拶状原稿抄録その他 昭和四十年度」(111600000)(39文書)
 昭和44年1月1日から昭和45年12月22日までの挨拶状等の大平自身による原稿を所収している。「公害問題試論メモ」(昭和45年6月)、「今後の日米経済」、「平和の中の秩序」(昭和45年9月)および瀬戸大橋関係の文書等を所収している。

(17)「大平明・上原吉子結婚式案内状その他」(111700000)(53文書)
 昭和52年7月27日付「招待状(議員在職25年永年功労記念撮影)」から昭和52年10月「招待状(大平明結婚式)」他、大平正芳宛招待状および、「首相指名投票大平正芳投票名簿(四十日抗争)」(昭和54年11月6日)および各種大平正芳による首相期のメモを所収している。また、「大平総理御逝去の御経過報告」および逝去後のカーター大統領・華国鋒総理の大平邸訪問関係文書も所収している。

(18)「6 挨拶状原稿抄録その他 年度不明」(111800000)(14文書)
 本ファイルには、年代が不明な大平正芳の「池田さんの「月給二倍論」「経済の軌道を修正しよう」「日本の国土を見直す」「安保改訂とその周辺」等の原稿が所収されている。

 

12. 大平正芳原稿(120000000)(16文書)

 本項目は、前記「11. 大平事務所作成ファイル」とは別途に原稿として保管されていたものである。

(1)「潮の流れを変えよう」原稿(120100000)(7文書)
 後述「4」の文書学的分析を参照。

(2)『旦暮芥考』原稿(120200000)(2文書)
 昭和45年刊行された著書の原稿である。

(3)『私の履歴書』原稿(120300000)(1文書)
 昭和53年に刊行された『私の履歴書』(日本経済新聞社)の自筆原稿である。現在、大平正芳記念館一階のガラスケ一スに展示されている。

(4)その他原稿(120400000)(2文書)
 大平自身による「田園都市国家構想について」等の原稿を所収している。

(5)挨拶状等原稿(120500000)(4文書)
 挨拶状原稿等の原稿を所収している。

 

13. 大平正芳追想原稿(130000000)(67文書)

 本項目は、大平の死後、大平正芳回想録刊行会および大平正芳記念財団により収集された原稿を所収している。

(1)追想編原稿(130000000)(9文書)
 『大平正芳回想録 追想編』(大平正芳回想録刊行会、昭和56年)にあたって寄せられた原稿を所収している。現在、本史料は、大平正芳記念館二階の展示室に置かれている。

(2)『去華就実』原稿(130100000)(31文書)
 『去華就實 聞き書き・大平正芳』(大平正芳記念財団、平成12年)を作成するに当たり新たに行われたインタビュー原稿である。

(3)その他(130200000)(27文書)
 伊東正義関係の雑誌記事等のコピーおよび去華就実編集関連の書類等を所収している。

 

14. スクラップブック関係(140000000)(89文書)

(1)大平事務所作成スクラップブック(140100000)(86文書)
 大平事務所において日常的に作成された大平正芳関係のスクラップブックである。

(2)回顧録編集資料(140200000)(3文書)
 大平正芳回想録作成の過程で大平正芳回想録刊行会により作成されたスクラップブックである。

 

15. メディア資料(150000000)(252本)

 大平正芳関係の各種媒体によるメディア資料を所収している。

(1)旧大平事務所所蔵メディア資料(121本)
 大平事務所において収集、蓄積された各種媒体のメディア資料である
 ①映像資料β形式(150100000)(29本)
 ②映像資料VHS形式(150200000)(7本)
 ③セットテープ(150300000)(46本)
 ④映像資料KCA形式(150400000)(6本)
 ⑤映画フィルム(150500000)(13本)
 ⑥映像資料その他(150600000)(20本)

(2)大平正芳記念財団移管資料(151100000)(131本)
 東京の大平事務所から大平正芳記念財団に引き継がれ、大平正芳記念館に移管された各種媒体のメディア資料である。「(1)旧大平事務所所蔵メディア資料」とも内容的に重なっている。
 ①映像資料β形式(151100000)(31本)
 ②映像資料VHS形式(151200000)(40本)
 ③カセットテープ(151300000)(54本)
 ④映像資料KCA形式(151400000)(3本)
 ⑤映画フィルム(151500000)(1本)
 ⑥映像資料その他(151800000)(3本)

 

16. 芳名録(160000000)(19文書)

 昭和38年から昭和55年までの大平事務所が行った激励大会等の芳名録および昭和56年6月6日の「墓碑開眼供養芳名控」を所収している。

 

17. 雑(170100000)(5文書)

 大平個人に関係する各種文書を所収している。故二階堂進氏(代議士)より大平家に返された大平自筆漢詩の額装がある。これは、日中共同宣言当日、北京迎賓館で書かれたものであるが、日中間の問題になると考えた二階堂進が密かに先に持ち帰ったものである。内容は次のようなものである(原文縦書き)。

長城延々六千里
汲尽蒼生苦汗泉
始皇堅信城内泰
不知抵抗在民心
山容城壁黙不語
栄枯盛衰凡如夢

 

18. 履歴関係(180000000)(75文書)

 大平正芳記念館二階に展示中の履歴関係の文書を記載した。

 

19. 芳名帳(採録せず)

 大平正芳の急逝後、日本内外の各所で弔問の芳名がなされた。膨大な量な芳名帳を大平正芳記念館は所蔵している。

 

20. 大平財団所蔵資料(200000000)(57文書、2点)

 大平正芳記念財団が大平志げ子夫人から寄贈され、大平正芳記念館に移管された資料群。瀬田の自宅焼失後のもので重要な書簡等を含んでいる。

(1)大平財団所蔵資料(200100000)(21文書)
 橋本清書簡、伊東正義書簡、外交文書および大平正芳の各種原稿(「平和国家の行動原則一日本の外交と防衛について一」等)を所収している。

(2)追加(200100000)(38文書)
 大平正芳記念財団から移管された書類(事務書類……採録せず)中に含まれていた大平関係書類および写真等を所収している。

 

津島寿一関係文書(71文書)

 津島寿一関係文書は、大平正芳記念館が開館する際に寄贈されたものであるが、その来歴、概要については別稿を期したい。

1. 日記(0100000)(24文書)

 大正15年11月から昭和27年10月13日まで間断なく書かれた官製のポケット版日記を所収している。

2. 手帳(0200000)(38文書)

 大正6年から昭和40年までの手帳を有している。

3. 関係文書・書簡(0300000)(9文書)

 津島の辞令、公用旅券、津島寿一宛の荒木貞夫書簡、松永安左エ門書簡、吉田茂書簡を所収している。本資料は、大平正芳記念館二階で津島寿一所蔵の落款・写真等とともに展示されている。

3. 大平正芳関係文書の文書学的考察

(1)『碩滴』の生成過程

 大平正芳は、自ら記す政治家であった。生前の著作の多さは、当該期の政治家のなかでも群を抜く存在である3)

 大平は、年賀状の原稿から、各種挨拶にいたるまで基本的に自ら起案した4)。大平正芳が自ら書いた草稿・原稿には、雑誌社・新聞社等の依頼に基づいて書かれたものと、講演・挨拶等に用いるため書かれたものの二つが存在している。また、それ以外では、折に触れて雑多な紙に書かれた政策メモも、大平正芳関係文書には多数存在している。雑誌・新聞等に関する原稿の場合は掲載後、講演原稿も自らの著作に収録され、また、後援者向けの小冊子である『碩滴』等に採録された。

 後援者向けの冊子『碩滴』は、昭和42年(1967年)夏に創刊されたものである。ちなみに創刊号『碩滴一昭和四十二年上期』の目次は、全体が「一、主張」「二、追恭と訊仰」「三、断想」の三部構成で、B6版56頁の冊子に、15本の大平正芳の文書が掲載されている。文書の内訳は、講演が2本、雑誌掲載原稿が5本、新聞掲載原稿2本、追悼文等の挨拶文が4本、それ以外の文書が2本となっている。これら大平の文書は、次のような流れをもって『碩滴』に所収されている。

(依頼→)大平正芳草稿→講演・挨拶→原稿化・大平事務所(整理・校正)→『碩滴』に掲載
(依頼→)大平正芳原稿→新聞・雑誌に掲載→大平事務所→『碩滴』に掲載

 生前に刊行された大平の著書も『碩滴』と同様の流れを有しているが、著書の場合は、原稿化の過程で浄書されている。

 大平が『碩滴』に掲載する原稿を選ぶ基準は、「過去一年位の間における私の講演や寄稿のなかから、捨て難いものの幾つかを拾ったものであります」と自ら述べており5)、目次も大平自身の指示により構成されている6)。草稿・原稿とも大平の手による推敲・添削が数次にわたっておこなわれている点も大きな特徴である(基本的に内容・表現が穏やかなものとなっている)。

 大平の草稿・原稿は、原稿用紙だけでなく、「大平正芳用箋」を含め雑多であり、多忙な代議士活動のなかで折を見て記されたものであることが理解できる。また、大平は、基本的に原稿を青ペン書(万年筆)で書いたが、メモ等の段階およびこれに近い草稿などは鉛筆書であることが多い。

 以上のような草稿・原稿形態は、中央政界における大平の存在感が増すごとに変化していく。基本的な「自ら記す」ことは、終生継続したものの7)、その発言が政界等に大きな影響を与えるため、複数人による加筆・修正がおこなわれるようになっていった。その分岐点の一つが、昭和46年4月17日、前尾繁三郎についで宏池会第三代の会長に就任した頃であった。

(2)政策文書「日本の新世紀の開幕‐潮の流れを変えよう‐」の生成過程

 四選を果たした佐藤栄作政権に陰りが見えるなか、佐藤政権下不遇であった大平も宏池会会長として派閥を率い、総裁候補として政策を明らかにする立場になった。

 大平は、宏池会の政策委員会での討議をへて、「日本の新世紀の開幕」と題する政策提言をまとめ8)、昭和46年9月1日、箱根(湯の花ホテル)での宏池会議員研修会において講演した。この「日本の新世紀の開幕‐潮の流れを変えよう‐」の演説草稿・原稿は、表に黒ペン書で「潮流変え元原稿」と書かれた封筒等に入った文書を含め、下記12点の文書が含まれている9)

 

①目録番号 120100100
 件名 『新しい世紀』原稿
 形態 B4洋紙17枚、乾式コピ一、黒ペン書・鉛筆書、ホッチキスどめ

 

②目録番号 120100200
 件名 「潮の流れを変えよう(未定稿)」
 形態 B4コクヨ原稿用紙11枚、黒ペン書、ホッチキスどめ

 

③目録番号 120100300
 件名 『潮の流れを変えよう』第五章草稿
 起案者大平正芳
 形態 B5変和紙4枚、鉛筆・黒ペン書

 

④目録番号 120100400
 件名 『潮の流れを変えよう』草稿
 起案者大平正芳
 形態 B4コクヨ原稿用紙8枚、B5変和紙4枚、黒ペン書·鉛筆書、ホッチキスどめ

 

⑤目録番号 120100500
 件名 「秘 潮の流れを変えよう(未定稿)」
 形態 B4コクヨ原稿用紙10枚、黒ペン書、ホッチキスどめ

 

⑥目録番号 120100601
 件名 「秘 潮の流れを変えよう(未定稿)」
 形態 B4洋紙10枚、湿式コピ一、黒ペン書、ホッチキスどめ
 備考 同件3部。緑ペン書での加筆・訂正あり。

 

⑦目録番号 120100602
 件名 「秘 潮の流れを変えよう(未定稿)」
 形態 B4洋紙10枚、湿式コピ一、黒ペン書、ホッチキスどめ
 備考 同件3部。青ペン書での加筆・訂正あり。

 

⑧目録番号 120100603
 件名 「秘 潮の流れを変えよう(未定稿)」
 形態 B4洋紙10枚、湿式コピ一、黒ペン書、ホッチキスどめ
 備考 同件3部。青ペン書での加筆・訂正あり。

 

⑨目録番号 120100700
 件名 『日本の新しい世紀‐「戦後」との訣別を‐』草稿
 起案者大平正芳
 備考 B5宏池会原稿用紙18枚、黒ペン書、クリップどめ

 

⑩目録番号 110501700
 件名 「潮の流れを変えよう 国民的連帯の回復から世界的連帯感の確立」草稿
 起案者大平正芳
 年月日昭和46年
 形態 B4洋紙22枚乾式コピー
 備考 青ペン書・黒ペン書・赤ペン書・赤鉛筆書にて加筆・訂正

 

⑪目録番号 043500100
 件名 「日本の新世紀の開幕」政策提言「潮の流れを変えよう」シリーズⅠ
 年月日昭和46年9月1日
 発信者大平正芳
 形態 B5変洋紙冊子12頁、活版

 

⑫目録番号 111801200
 件名 『日本の新世紀の開幕‐潮の流れを変えよう‐』原稿
 年月日(昭和46年9月2日)
 起案者大平正芳
 形態 B4原稿用紙17枚、青ペン書、ホッチキスどめ

 

上記の諸文書の流れは、次のようなものである。

 

(図1)
「潮の流れを変えよう」 「日本の新しい世紀」

④③大平第一次草稿
 ↓
②大平第二次草稿
 ↓
⑤浄書(原稿)
 ↓
コピー版三部
⑥意見、⑦関係者修正、⑧大平修正
 (⑩「潮の流れを変えよう」) ⇒ ⑨第一次草稿
 ↓
①第二次草稿
 ↓
 ⑫最終稿
 ↓
 ⑪「日本の新世紀の開幕‐潮の流れを変えよう‐」(活版)

 

 「日本の新世紀の開幕‐潮の流れを変えよう‐」(⑪文書)の生成過程は、(図1)にあるように、二つの政策提言を合わせたもので、基本的に宏池会事務局安田正治、福島正光両氏による原案に、大平自身の推敲と宏池会政策委員会(委員長 大久保武雄代議士)のコメント等が加えられ、加筆・訂正等が繰り返されることによって練り上げられたものである10)

 このうち、「潮の流れを変えよう」の系譜で③文書は、④文書の後半部分である。第一次草稿④文書の特長は、当初、400字詰原稿用紙に青ペン書で書かれた点である。この部分が、安田正治、福島正光両氏による原案であろうと思われる。そのうえで大平正芳による黒ペン書および青ペン書で推敲が重ねられている。また、③文書と④文書の「四、公共投資の積極的推進」は、便箋と思われる和紙に鉛筆書で書かれており、筆跡から大平正芳により追加された項目と考えられる。この第一次草稿の構成は、「一、政治に対する信頼の回復」、「二、「対米協調」問題」「三、中国問題」までが原稿用紙で書かれている。「四、公共投資の積極的推進」は、便箋と思われる和紙に鉛筆書で書かれている。この和紙にも、青ペン書で大平により加筆されている。③文書は、④文書の第五章に相当する「五、国民的連帯意識の培養」となっている。③文書は、途中、鉛筆書から青ペン書となっている。

 第一次草稿では、「一、政治に対する信頼の回復」と「二、「対米協調」問題」の間に位置していた「平和外交」の必要性について書かれた部分が約500字分程度削除されている。また、第一次草稿では、「戦後最大ともいうべき難局に直面」して、「政治要勢の切り替え」と「政策軌道の修正」を主張し、その具体的政策として各章が設定してある。このなかで、「一、政治に対する信頼の回復」では、投票率の低下と無党派層の増大に対して、自民党の責任を喚起し、将来に解決を先延ばしにする「ツケの政治」の是正が主張されている。「二、「対米協調」問題」では、対米協調とともにドルショックに対する多国間協調の必要性を主張する。「三、中国問題」では、当初、国連の動向に合わせて「北京との間に外交関係を開く方向で諸般の準備を進めるべきであろう」とされていたが、「日本としては中華人民共和国(を政党:削除)政府を相手として、国交正常化の開始の交渉開始を申入れるべき」としているが困難が予想されるため「可能な限り積み上げ方式による貿易、技術、航空、経済協力等の経過的取極めを行う容易をもつべきであると考える」に改められている。「四、公共投資の積極的推進」では国民の福祉増進と住環境の改善のため「公共的な建設投資」による社会資本整備が主張されている。これにより内需拡大による輸出圧力を緩和し、そのための財源確保を主張している。「五、国民的連帯意識の培養」では、「地域」から「国家」、そして「国際的連帯」へと進むため、基盤となる「人間的な連帯」の必要を説いている。

 第一次草稿をまとめた②文書の第二次草稿は、(未定稿)と記され、第1頁から3頁までと、それ以降、最終頁(11頁)までの筆跡は違い(安田正治、福島正光の両氏と思われる)、後者は⑤文書と同じ筆跡で浄書を意識したものとなっている。その形態からも、②文書は、④③文書と⑤文書の中間に位置した文書であるといえる。項目は、「一、政治に対する信頼の回復」、「二、対米関係の再調整」「三、中国問題」「四、公共投資の積極的推進」「五、国民的連帯意識の培養」となっており、第二章分の表題が修正されている。本②文書も大平正芳による修正が各所になされている。

 「一、政治に対する信頼の回復」では、④③文書で欄外に記入されながら削除された「国民の直接的な政治参加を求める動きが、各種の市民運動の形で益々活発になってきている」との認識が復活している。また、「二、対米関係の再調整」では、「対米協調は、これまでも日本外交の基調であったが、海洋国家日本の生存と繁栄の条件を考えると、日米友好は、日本外交の主軸でなければならない」と「対米協調」がより強調されている。また、ドルショック(「ドル防衛措置」)への対応について、「日本が自主的になすべきことは、ためらうことなく実行し、当面の不安と混迷を取除くべきである」と加筆され、より積極的な表現となっている。そして、内需拡大のために「速かに公債の発行と大型の予算補正に踏み切るべきである」が削除され、「非常時に相応しい勇断を以て、ニュー・デールともいうべき新しい経済政策に手を染めるべきである」に訂正されている。「三、中国問題」では後半部分が大幅に削除され、「日中友好関係の永続的な基礎を踏まえつつ、北京との間に政府間の接触を開始することが、内外の輿論に忠実な所以であると信ずる」と改められている。「四、公共投資の積極的推進」「五、国民的連帯意識の培養」については、ほとんど④③文書をそのまま浄書した形となっている。

 ⑤文書は、上記文書を一旦、浄書したものである。②文書の後半と同じ筆跡である。若干、表現などで大平による加筆・修正等が行われている。本文書は、文頭に(秘)と打たれている。

 この⑤文書をコピーして宏池会政策委員会の各員に配布し、加筆・修正等を受けて返却されたと考えられるのが、⑥⑦⑧文書のコピー版三部である。このうち、⑥文書は、各所に緑ペン書で書き込みが入れられているが、加筆・訂正ではなく、疑問などを記した欄外記入である。「二、対米関係の再調整」の部分では、ドルショックに対して「ドルの安定にはまずアメリカ自身の努力を求め、日本としては円の安定的基準を探りあてた上で円の切上巾を決めて交渉に移る可し」「ドル価値安定の為め防衛費肩替り 対外援助等も協調の意か?」等と記入されている。「三、中国問題」でも「政府の国連に於ける行動の基準?台湾擁護か?中国招請賛成か?」とあり、「五、国民的連帯意識の培養」でも「最終の目標は、国民的な連帯か国際的連帯か?」等との疑問が提示されている。

 同様に、関係者の手による⑦文書では、「二、対米関係の再調整」で「対米協調」と国際協調との重点移動に関して、「日米間の協力は二国間の問題であっても、より高い国際的次元で進めなければならない」と修正。ドルショックに対しても「[最も重要で且緊急なことは、円の対ドル平価の調整の如く]日本が自主的になすべきことは、ためらうことなく[断行し]、当面の不安と混迷を取り除き、[日本の国際的責任を先づ果すことである]」([]内が加筆・修正)としている。「三、中国問題」では、中華人民共和国に代表権を与えることが内外世論上「大きな潮流」となるなか、「政府は、この認識に立って、友好諸国の理解を求め、北京との問に政府間の接触を始める」と修正されている。

 ⑧文書は、⑦文書の加筆・訂正をうけ、大平自身が行った修正であると考えられる。基本的に⑦文書の修正を受け入れているが、「三、中国問題」では、「大きな潮流」などの言葉を廃し、「日中友好の[精神と原則をふまえて]永続的な基礎を踏まえつつ、北京との間に政府間の接触をはじめる」としている。

 この「潮の流れを変えよう」の文書の流れのなかで表題は同じであるが、前述の④③文書から⑧文書までの過程で、副題の「国民的連帯の回復から世界的連帯感の確立」に力点を当てて再構成したのが⑩文書である11)。⑩文書は、政治不信、外交問題だけでなく学生問題も含めて、七○年の社会変化に重点を置いて書かれている。しかし、ドルショック等の具体的事項についての言及は少ない。これまでの政策提案型の文書ではなく理念形成に力点を置いた構成であるといえよう。

 しかし、⑩文書における外交問題の段落では、中国問題と対米問題の位置が逆転しているものの、「日本の新しい世紀」「二、外交における“戦後”の清算」の前段階に位置するものと言える。また、結論における「民、信なくば立たず」の引用は、この⑩文書ではじめて使用されたものである。この二点からも「潮の流れを変えよう」の系譜から「日本の新しい世紀」の系譜へ草稿が移行する過渡期の文書であると言えよう。

 一方で、「日本の新しい世紀」の系譜としては、⑨文書「日本の新しい世紀‐「戦後」との決別を‐」が第一草稿である。福島正光氏が述べられている宏池会政策委員会から文書を回収して最終的に大平自身が責任をもって加筆・修正した文書が、本「日本の新しい世紀」の系譜ではないか、と推測される。

 このなかで大平は、円の変動相場制への移行を「責任ある主体として国際社会に足を踏み入れた」と評価したのであった。そして、「自らの責任でそれを負担しなければならない。これはいわば日本にとって、戦後体制の終幕であり、新しい世紀の開幕である」としたのである。このための課題として、「一、政治に対する信頼の回復」「二、外交における“戦後”の清算」の二点を挙げている。

 このうち、「一、政治に対する信頼の回復」は、「潮の流れを変えよう」における内容とほぼ同一である。「二、外交における“戦後”の清算」では、国際社会が多極化しつつあると認識し、外交の基準を「平和の維持」に置き、二つの課題を提示する。第一が対等な形での日米関係の改善であり、第二が中華人民共和国との国交正常化をあげている。特記すべきことは、後者で国連での中国承認にあたって「逆重要事項指定方式を支持するがごとき、世論の大勢に逆行するような仕草は、厳に戒めなければならない」としている点である。この二つを処理することが日本外交における「「戦後」を清算」することであるとしている。基本的な中国問題での修正は、最終的な大平の加筆修正によって本⑨文書で終わっている。

 この草稿を浄書したものが、①文書である。構成は、「一、政治に対する信頼の回復」「二、外交における“戦後”の清算」「三、高度田園都市の実現」「四、日本的ヒューマニズムの確立(加筆:人間的連帯の回復)」であり、前二者は、⑨文書の浄書に相当し、後二者は、この段階で新たに加わったものと考えられる。「三、高度田園都市の実現」では「民間設備投資を軸としたこれまでの成長第一主義」を改め、「公害の防止」「社会資本の整備」「環境の改善」に力点を移すべく「公共投資を中心に改める」ことを主張している。このため農村の住環境を整備して就業機会を与えて「田園」に変え、「田園」に都市を導き入れ「生産性の高い工業と農業が、また、都市と農村が高次に結合された社会」を想定するのである。「三、高度田園都市の実現」は、「潮の流れを変えよう」の「四、公共投資の積極的推進」に相当し、より「田園都市」との目的性を与えたものである12)。この段階で「四、日本的ヒューマニズムの確立(加筆:人間的連帯の回復)」は、「潮の流れを変えよう」「五、国民的連帯意識の培養」」に相当し、内容を整理したものとなっている。

 

 以上の「日本の新しい世紀」の系譜を受け継ぎ、大きく二つの文書の流れを総合したのが⑫文書である。

 構成は、「一、序」「二、政治不信の解消」「三、人間的連帯の回復」「四、自主平和外交の精力的展開」「五、田園都市国家の建設」「六、結び」となっている。

 このうち「一、序」は、「日本の新しい世紀」の序を大幅に書き換えたものであるが、後半部分では「政策軌道に大幅な修正」が「政策軌道の大胆な修正」に変わるなど小修正が加えられている。「二、政治不信の解消」は、「潮の流れを変えよう」から「日本の新しい世紀」の過程で修正された「二、政治に対する信頼の回復」の表題を変えて採録したものである。「三、人間的連帯の回復」も「潮の流れを変えよう」「五、国民的連帯意識の培養」から「日本の新しい世紀」「四、日本的ヒューマニズムの確立」を「人間的連帯の回復」と直されたものが用いられている。この部分は、特に「潮の流れを変えよう」の大平草稿の段階から大きな変化なく、当初の大平草稿を基本的に踏襲して採用されている。ただ、この部分が「五」「四」から「二」で繰り上がったのは、⑩文書の影響が大きかったということができよう。「四、自主平和外交の精力的展開」は、「潮の流れを変えよう」における「二、対米関係の再調整」「三、中国問題」を統合した「日本の新しい世紀」「二、外交における「戦後」の清算」を基本的に踏襲しているが、本⑫文書で新たに「第三」として「経済文化協力の推進」が加わっている。「五、田園都市国家の建設」は、「日本の新しい世紀」「三、高度田園都市国家の実現」を若干修正して表題を変えて採用している。「六、結び」は、「潮の流れを変えよう」の⑩文書から「日本の新しい世紀」結論の後半部分を用いたものである。結果、「日本の新しい世紀」①文書の「四、日本的ヒューマニズムの確立(加筆:人間的連帯の回復)」から結論部分へという流れとは異なったものとなっている。

 この⑫文書の修正をそのままに活字化されたのが、昭和46年9月1日、箱根(湯の花ホテル)でおこなわれた旧宏池会議員研修会講演に使用された⑪文書「日本の新世紀の開幕‐潮の流れを変えよう‐」である。

 

 以上のように大平正芳は、総理・総裁を目指すにあたって、自らの加筆・修正を通じて政策提言を作っていったことが理解できる。安田・福島両氏の原案は、宏池会政策委員会の意見等を基にしつつ改変をつづけ、大平の手が入ることによって、前尾派と大平派の対立を超えた宏池会代表大平正芳の政策提言として練り上げられていった。

 大平は、「日本の新世紀の開幕‐潮の流れを変えよう‐」のなかで、無党派層が増えつつあることを積極的にとらえるとともに、一方で希薄化する人間関係の再構築を「連帯」という言葉に仮託してその拡大を策し、また、国際社会が多極化するなかで日本の責任を問い、中央と地方の対立を回避すべく田園都市構想を掲げた。昭和46年、70年代に入ったばかりにもかかわらず、大平の問題意識は、今も活きているのである。

 なお、「日本の新世紀の開幕‐潮の流れを変えよう‐」は、政策提言「潮の流れを変えよう」のシリーズIにあたり、その後、シリーズIIとして「財政経済における発想の転換」が昭和46年12月16日に、シリーズIIIとして「平和国家の行動原則」が昭和47年6月6日に『自由新報』に掲載されシリーズが完結している。そして、この政策提言は、後に大平内閣における政策研究会に引き継がれたのである。

4. 大平正芳関係文書の紹介

本章では、大平正芳関係文書中の二つの文書群について紹介を行うこととしたい。

(1)池田内閣の終焉と大平正芳

 「11. 大平事務所作成ファイル」にあり、大平正芳記念館二階で展示中の「2. 挨拶状原稿抄録その他 昭和四十年度」(111500000)にある「池田内閣総理大臣の辞任決意表明」という同じ題名を有する二点の史料[(史料1)「池田内閣総理大臣の辞任決意表明」(目録番号111504100)、(史料2)「池田内閣総理大臣の辞任決意表明」(目録番号111504101)以下、(史料1)(史料2)と略記]について紹介する。ともに、作成年月日は、昭和39年(1964年)10月25日とされている。

 作成者は、(史料2)の文書は大平正芳自身の手によるものと思われるが13)、(史料1)は、昭和39年10月25日の池田首相の辞任決意表明前における池田派(宏池会)の自民党内各派閥動向を中心とする情勢判断に関するものであり、内容から伊藤昌哉秘書官によるものと考えられる。後者の(史料2)は、(史料1)の判断にもとづく、段取りに関するメモであると言えよう14)

 

 この池田首相の辞任、そして佐藤内閣の成立過程について、大平は、党内融和の点から佐藤首班を考えており、佐藤派田中角栄と共同して行動していた15)。この昭和39年10月25日以降、次期首班として佐藤栄作内閣が成立するまでの約二週間を大平は後に「熱い湯桶にはいっているように、永い緊張した歴史的時間であった」と述懐している16)。そして、佐藤首班が池田の裁定により決まった11月9日、池田の病床を見舞った大平が池田に「十一月九日という日は、貴方にとっても私にとっても生涯における最良の日ですね」との問いを行い、池田は「黙してうなずいた」とされるが、大平の感慨と池田の意志との相違を17)、本史料は明らかにするものと考えられる。

 (史料1)で、池田は後継首班に藤山愛一郎を考えていたと思われる。これは、池田派(宏池会)を自民党の中核に据え続けようとする意志によるものであり、池田派と三木派を中核とし、佐藤栄作と河野一郎という実力者を合い競わせて、第三の候補者である藤山を擁立しようとするものである。本史料からは、佐藤栄作を次期首班とする方向性は見えない。その点でも、当時、佐藤派の田中角栄と共同して、佐藤擁立に動いていた大平(当時、副幹事長)の立場とも異なる。基本的に、池田派‐三木派を中核とし、これに藤山派、大野派、河野派、川島派等を糾合し、佐藤派・岸派連合による政権を阻止しようとする点で、昭和39年7月10日の総裁選における構図を維持しようとするもといえよう。従来、前尾繁三郎がこの路線であったとされるが、前尾自身、10月25日以降、積極的に動いていないことを考えれば、むしろ池田の意志であったのではないだろうか。

 それが、(史料2)では、段取りにおいて微妙に変化している。まず、池田の辞任決意表明にあたって川島正次郎副総裁、三木武夫幹事長、鈴木善幸官房長官、河野一郎の四人を招集することとなっているが、後継総裁を話し合いですすめるうえで、「河野」の名前が削除されている。また、決定にあたって、(史料2)では、「④機関中心主義で役員会、総務会、顧問会、相談役会の議を経て、最終的に議員総会でしめくくる」が削除され、後継首班の選定作業を川島と三木とともに池田派の主導のもとに置こうとする意志をそこに読むことができる。(史料2)が大平の手によるものとすれば、(史料1)から(史料2)への過程は、大平が河野一郎を後継総裁から遠ざけていった過程と読むことができる。

 具体的に(史料2)は、昭和39年10月25日とされているが、実際の同日、池田の病床に呼ばれた河野一郎は川島副総裁、三木幹事長と同時にではなく、川島・三木両氏が会った後であった。本文書と実際との間も、(史料1)から(史料2)への過程同様、河野一郎を排除していく過程であると同時に佐藤栄作を首班としていく過程であり、大平の意図するところであった。

 これは、官僚派との連携を中心とするという意味で、大平が吉田茂の希望にそった方向に軌道修正させ、田中角栄との連携による自民党内の対立緩和を優先した結果であった。また、佐藤の後継首班指名が11月にずれ込み、この過程で池田派としては、池田首相の「裁断」という形式に成功したため、池田派=宏池会は、岸内閣総辞職後の岸派や、田中派(木曜会)の設立にともなう佐藤派のように分裂することなく、派閥としての一体性を保持した。

 反面、池田派は、その統一を保ったものの、池田三選時のような主流派を糾合し、自派の推薦による新たな総理・総裁を作れなかった。その意味で本過程は、「官僚派」と「党人派」という対立構図ではなく、両派を一体化させ、後の「田中派支配」のような立場に池田派(宏池会)がとるか、とらないか、という選択であったともいえるだろう。

 なお、本史料紹介では、横書きとなっているが実際は、両史料とも縦書きである。

 

(史料1)
目録番号 111504100
件名 「池田内閣総理大臣の辞任決意表明」
年月日昭和39年10月25日
形態 B5原稿用紙、31枚

 

本文

〇党内情勢

(1)池田首相(池田勇人)の意思表示(辞意)があるまで「動けない」というのが大勢である。(福田赴夫)「動けば四方からたたかれる。演出側近を見守れ」というのが現状であろう。各派は 少数の幹部が謀議をこらし 連絡員の設置 情報網の確立に止まつている(佐藤派は十月二十一日、幹部会を開く予定)

 

(2)七月に於る総裁公選の戦略について教訓を思い出し 公選当時の勢力を確保することに専念しているが十月二十五日以降は一せいに行動に出るであろう。(佐藤派はすでに大野派と接触し 倉石氏(倉石忠雄)らが川野芳満(将)氏ら三氏にさそいをかけたという。)

 

(3)だから この段階においては各派の性向(幹部の手口と人間性)を徹底的に追及して、政局の帰趨を予見し「極限値」を発見するという作業にならざるを得ない。この作業で一応の目安をさだめた上、十月二十五日以降起きるであろう現実の動きに合はせて随時、対策を立てるというのが正しいことになろう。

 

(4)各派の動向は総裁候補をもつもの(第一グループ)と然らざるもの(第ニグループ)とによつて動きが異るはずである。
第一グループ 佐藤(栄)、河野、藤山、川島、三木
第ニグループ 石井、大野、池田

 

(5)第ニグループに共通な意識は(総裁候補をもたないという立場)キヤステイング・ボートを握つて主流派に参加し 自派を出来るだけ高く売りつけよう(大野派の考へ方)という考へで最後まで去就を明らかにしないかもしれない。(若し 早期に動く気配があるなら 第一グループからの働きがあつたのであり その派に関するかぎり「勝負は終つていた」ことになる。)

△池田派の去就。 極めて重要である。各派は一せいにその動向を注目するであらう。前尾(前尾繁三郎)、大平(大平正芳)、鈴木(鈴木善幸)、周東氏(周東英雄)らの核を中心にして一体とならねばならない。自分達はどこへ行くのかという不安感を解消し「今迄通りやれるのだ」「世話をしてくれる人々が居るのだ」という安心感を与えないと動揺は激しいであろう。「首相の真意をたしかめよう」と病院におしかけることもあり得る。最後は池田首相の言葉が千釣(ママ)の重みを示すだらうが「幹部一任」をとりつけ 徐々にタガをはめ 不純分子の動きを拘束せねばならぬであらう。

 一番いけないのは 第一グループからの働きかけで 池田派が動揺し 公然たる反幹部運動にさらされて前尾、大平、鈴木、周東の諸氏が 他派との接衡、接衝を行うだけの余裕がなくなることである。

 石井派は派としての動きをみせないままに終るかもしれないが 形の上では七月選挙の時を同じ態度に出るであらう。

 

(6)第一グループのうち最も態度が明白なのは佐藤派である。この派は佐藤氏(佐藤栄作)自身を含めて自らの政権を95%信じている。
池田派に益谷グループ 大平グループの協力によって自派に協力すると考へているであらう。吉田(吉田茂)(大磯)が最後のキメ手になるともふんでいる。この線がのびてくれば「話合」に応じてもよいし河野(河野一郎)の臨時首相代理は認めてもよいと考へているようである。「河野派との激突をさける」という考へ方があることは注意を要する。この派は最後まで首相になり得るチャンスを失うまいとねばるであらう。佐藤総裁をねらいとする話合いの線で破れれば公選を主張するであらう。したがつて議員総会方式で総裁を決定することも佐藤氏が総裁になる含みで賛成しそうでないなら反対するとみなければならない。(公選のケースはあり得るとみるしたがつてこれをどの様におさへ切るかがポイントの一つである。)

 

(7)河野派の去就も総理、総裁を狙う立場である。十月二十五日の医師側診断で「一、ニヶ月の治療が必要」と出た時は河野の処へ臨時首相代理が廻つてくるものと判断している。河野周辺が臨時首相代理を獲得することで佐藤より一歩先んずることになるとみるのは当然である。
若し首相がその措置をとらないとすれば必ず池田派に反発の態度に出るであらう。(十月二十五日の病院における決定はこの措置をめぐつて党首脳間に意見の食違いがでるかもしれない。)河野派はあまり友党をもつていないので党の大勢を形成する力にかけている(池田派の構想をマルのみした場合は別である)が党の大勢を決する寸前に河野派がこれを破壊する作同(ママ、策動カ)もみておかねばならない。(河野一郎が突然佐藤栄作と結ぶか如き場合)

 

(8)藤山派(藤山愛一郎)は最も簡単明瞭である。反佐藤、反河野の線で大勢が決するとみれば容易にこれに乗るであらう。(中道派の形成は藤山自身の主張である。)若しこの線が確立しなければ公選を主張し 佐藤、河野何れとも争つて自己の主張を明らかにするであろう。

 

(9)川島派は常に主流派となる作戦に出るであらう。副総裁の地位を最低限度とし、党内操縦のしやすい総裁を選ぶであらう。(佐藤、河野よりは藤山を選ぶ)川島暫定(川島正次郎)総裁説すら取引きの道具に使うはずである。

 

(10)三木は公選になれば立候補しなければならない立場にある。しかし彼は七月公選で反佐藤に徹した。河野とむすんでも佐藤政権の樹立に反対する。三木(三木武夫)は自分の健康を知つているふしがある。池田首相が三木を指名しない場合はまとめ役に終始するかもしれない。

 

(11)以上のような判断から 後継総裁として最後まで争うのは佐藤、藤山、河野の三人で川島と三木は話合いによるまとめの線を出ず(福田赴夫)とみてよいであろう。以上の三人がが(ママ)どうしても頑張るとなると公選はさけられないという見透しが出てくる。(立候補者二人の場合は話合いが行はれ易いが三人の立候補者となるとむずかしくなるから)

 

(12)各派の勢力結集が結局後継総裁を決定するという原則にかわりはない。現在の池田首相がこれに大野派が乗れば大勢は決するのではなからうか。大野派の代りに川島派でもよいがこれには危険がともなう。

 

(13)一方「川島 大野(大野伴睦) 河野 藤山の党人四派会談」がある。政局の表面ではこの「四派会談」と(12)項の「五派会談」が重なり合へば衆院段階での大勢は決したことになる。つまり、反佐藤戦線の確立が池田政権の後継者を決定することになる。(藤山、川島、河野の三者の話合いが最大の課題となる。主導権は川島・河野にうばはれることもあろう)

 

(14)藤山は「四者会談」には出ているが「五派会談」には出ていない。池田派と三木派は「五派会談」には出ているが「四派会談」には出ていない。したがつて「藤山と池田派のパイプ(三木派)」がよほどしつかりしていないと形の上で池田派がリードしていても川島や河野にしてやられる可能性がある。

 

(15)「池田派と三木派の連繋」はいや応なしに最も強固なものとならざるを得ない。この二つの派の周辺に「川島、藤山、河野、大野の四派」をひきつける工作が第一の問題となる。四派のうち藤山派は池田首相の意中が藤山氏であるとすれば当然乗らざるを得ない。ついで大野派の大勢がきまり川島派がついてくるということになるかもしれない。唯、佐藤・河野が連ケイし 川島がキヤステング・ボートを握るとやつかいになる。(この場合は多数決決戦になるかもしれない。)

 

〇池田首相の指名権

(1)首相は最後まで後継者の指名をいやがるであらう。首相の指名は行えたとしてもそれは実体が出来あがったものを形式的に指名するという形になるかもしれない・したがつて 指名によつて実体が出来上るとは見ない方がよいだらう。指名か行はれたとしても かなり 時間がかかり 十一月になつてからであろう。指名は単数でなく 複数となり「このうち誰れがなつても支援をおしまない」という形になるかもしれない。或は「公選によってきめよ」という形になるかもしれない。これらは何れも 実勢力結集に時間か(がカ)かかった時 或はそれに失敗した時で最悪のケ一スであらう。

 

〇時間的な限界

(1)次期政権工作は池田政権の維持よりむずかしいかもしれない。だから 長い時間がかかるとみるべきであろう。臨時国会は当然首班指名国会にならざるを得ない。

来年度予算は次期首班がきめるのが正しいからどんなにみても十一月一杯には首班指名が終つていなければならない。国際情勢が変動していること問題が山積していること 尋で世論(特に新聞)は急速な政変劇を要求するであらう。そこでこれを阻害するような態度に出る政治家はマイナスを負う結果になり 世論の圧力から十一月中旬には総裁がきまり首班がきまることになる可能性がある。

 

(2)この場合(首班指名の臨時国会で補正予算その他の条件をこなすことになる)臨時国会を十一月下旬とみて「十一月中旬には党内の大勢がきまつていなければならない。」このメドは党執行部の「総裁公選(両院議員総会)の期日」によって決定される。七月公選の場合は六月二六日の国会開幕七月十日の公選であった。(約二週間である)今度も遅くとも十一月十四日まで(早ければ七日ごろまで?)には何とかおさまると見てよいだらう。十一月に入つて二週間の時間である。十一月に入るまでは(十月二十五日から六日ある)「段どり」の決定をすればよい。

 

〇今後の段どり

(1)政局のスタートは勿論十月二十五日(日)となる。久留院長の病状発表(午前十一時)の間に或はそれより少し早目に比企総長が首相に報告しそれを受けて十一時すぎには官房長官、三木幹事長を首相が呼んで置かねばならない。
首相がここで辞意を表明しひきつづき河野一郎氏と川島正次郎氏に臨時首相代理を呼ぶ。(この際、河野一郎氏に臨時首相代理を命ずるかどうかは考へておく必要あり)首相の談話を発表する。(大平氏or黒金氏より財界人でお世話になった少数の人々に電話で辞意表明を発表する前に連絡すること)

 

(2)十月二十五日中に役員会議を開き辞意表明の取りあつかひ、緊急総務会の招集等の段どりをきめる。恐らく二十六日の緊急総務会となる。これと平行して党長老(顧問)会議、実力者会談等を予定する。藤山氏が二十七日頃帰国するから これを待つてくれという要望が出るであらう。実質的な党機関の動きは二十七日以降となる。

 

(3)十月二十六日の緊急総務会で 池田首相の辞意を受けないという動きが出てくるかもしれない。(河野氏が臨時首相代理になつておればこの動きはないであろう)「普通の両院議員総会」は議員が散つているので 十月二十八日か二十九日ごろになるだろう。ここで両院議員総会方式で総裁を決定する。一月党大会で追認するという方式がきめられれば一番良い。

 

(4)十一月七日以前に党大会に代るべき両院議員総会が開けるのであれば 話合い方式で後継者を決定出来ることになる。十月一杯は「後継者選出の方式」をめぐつて各派の動きがはげしくなり実質上これが公選運動となる。

 

(5)一番良い方法は首班指名の為の臨時国会を十一月中旬にあらかじめ開く予定にし(例ば十一月十日)その二、三日前に党大会に代るべき両院議員総会の日どりを決定してしまうことかもしれない。(辞意を表明した首相が臨時国会を招集するわけには行かない?)そうすれば いや応なしに十一月七日までには後継総裁が出来るであらう。

 

(6)要するに 十月一杯は段どりの決定(党機関)にかける。これと平行して各派の動きが激しくなり十一月一日から七日までの間に後継者をつくりあげる というのが大体の目安となると考へてよいであらう。

 

(8)((7)欠)我々の行動要領は「藤山をひきつけて佐藤氏と結ばせぬこと」「佐藤氏と河野氏をどこまでも張り合わせること」「最後に藤山と河野とを話合はせて結論をつけること」の三段階になるだろう・この三段階において 池田派と三木派が終始党内をリードするなら実質上 池田首相の指名によって後継首班がきまったことになるであろう。

 

(9)この全過程の中で速に後継者をつくるという「大義明(名カ)分」(或は池田首相の意思を生かそう、国際情勢の変化に即応しよう)段どりに対する「決定権」「資金」の三点が重要な要素でこの三つの生かし方が如何が大勢に大いに影響する。

 

 各派の動きは この流れに沿ひつつ 阻害の働きをするとみるべきで 誘導の仕方は極めて重要である。この誘導が池田派プラス三木派の勢力結集とならんで日々の政局を左右するだらう。

 佐藤派の保利(保利茂)、田中(田中角栄)、福田赴の三氏は最も強敵である。佐藤派内部はすでに佐藤次期政権における主導権争いの気配を濃厚にしているから政局の推移の中で必ず弱点を出してくるであろう。転機をつかまえ得れば幸いである。

 

(10)参院対策が我々の弱点である。重宗(重宗雄三)、林屋(林家亀次郎)の活躍は優勢をとるとみるべきである。しかし藤山を後継者にするという動きが最もヒットするのは参院かもしれない。佐藤、河野両氏のはり合いによって一番困るのは来年の選挙をひかえた参議院であるからだ。

 

(11)総裁決定を行はず いきなり首班指名を行ひ この首班を一月党大会で総裁とする(石橋(石橋湛山)の時の岸首班の前例)ことはとるべきでないだろう。(了)

 

(史料2)
目録番号111504101
件名 「池田内閣総理大臣の辞任決意表明」
年月日 昭和39年10月25日
起案者 大平正芳
形態B5原稿用紙、3枚

 

十月二十五日 病状総合診断発表。
川島、三木、河野、鈴木招致決意表明
(副総理をおくかどうか、総理談話打合)
首相談話発表

 

十月二十六日 十時 臨時閣議
(後任総理がきまるまで政務に停滞を来さない。事態の収拾に一致協力する)
役員会 四役 幹事長 処理方針
総理 ①話合いで後任総裁をきめる。
 ②当分現体制で行く。
 ③話合いは河野、川島、三木で主導的役割を果たす。
 ④(削除)機関中心主義で役員会、総務会、顧問会、相談役会の議を経て、最終的に議員総会でしめくくる。

 

一、決意表明

①入院以来鋭意治療に努めているが、今日まで一応順調に行っておる。
しかし、治療が最も順調に推移した湯合においても総理の激務に耐え得るまでには、尚五ヶ月の期間はかかる、という状態である。

②一方国際情勢は、目まぐるしい転移を見ておるし、内には臨時国会、予算編成、通常国会等を控えて、私がこのような健康状態で、政務を見ることは許されないと思う。

③ついては、この際、自分が辞職して、後任の総裁を選び、新党首の下、挙党一致して、内外の時局に雄渾に対処してもらうことが、国の為党の為最善の道と思うので、自ら辞任したい。

④ついては、自分の辞意を諒とせられ、副総裁、幹事長が中心となって、新党首選任に特段の御苦労をお願いしたい。

⑤なほ、自分の意向としては、内外の時局極めて重大且微妙であるので、政界に大きい激変を招くが如きことなく、できれば新党首は話合によりお選び頂き、且党及政府の現体制の改編は極力これをさけ、事態の穏健、円満且迅速な処理が望ましいと考えておる。

(2)大平内閣の成立をめぐる伊東正義書簡

 次に、大平正芳が総裁予備選に勝利し、福田赳夫にかわって首班となる過程での人事をめぐる伊東正義からの書簡を紹介する。

 (史料3)伊東書簡①は、私邸に呼ばれた伊東正義と福田赳夫首相との会談を大平に報告したものであり、ロッキード事件をめぐる対応と、自らの処遇に関するものである。

 (史料4)伊東書簡②および(史料5)伊東書簡③は、自民党総裁公選後の党役員人事をめぐるものである。

 昭和53年11月27日開票の自民党総裁公選の結果、マスコミの予想を裏切り、大平正芳幹事長が福田赳夫総裁を大差で破った。福田は、「天の声も変な声」との言葉を残し、本選を待たず退陣を表明した。新総裁となった大平正芳であったが、党内の亀裂は大きく、当初から役員人事の難航が予想されていた。理由は、「大差で一位という結果でむしろ選考がむずかしくなったとの空気が流れている。田中派との関係など同じ陣営内での調整がきわめてやっかいになった」ためであり、挙党体制の構築の仕方が問題となったのである18)。その焦点は幹事長人事であり、「田中派は、二階堂氏の潔白を証明するためにも、三役入りをのぞむ声が強い」と報じられていた19)。三役人事を前に、党内実力者を歴訪した大平の言動から、三役人事の予想は、幹事長鈴木善幸(大平派)、政調会長河本敏夫(三木派)、総務会長倉石忠雄(福田派)とされていた20)。(史料4)伊東書簡②で伊東が政策的に推している河本敏夫幹事長説は、「大平自身は新勢力結集の立場から、やはり三木派の河本敏夫を幹事長に据えたい」との情報も流れていたが、「河本自身の適格性というより背後に三木武夫が控えているとして、田中派は“幹事長”に反対だろう。福田派だって、最終的には鈴木を認める」と予想されていた21)。また、(史料4)伊東書簡②は、党役員人事の中心が鈴木善幸であり、伊東との間で意見の相違があることが明らかにされている。両者の対立は、後の鈴木内閣での伊東外相辞任を想起させる。また、鈴木が田中派との連携から二階堂進の三役入りに積極的であり、伊東が反対していることもわかる。伊東は、挙党体制の成立を田中派重視ではなく、福田派等にも配慮した全党的なものを主張したのである。この(史料4)伊東書簡②にある「大平内閣の船出を立派なものにしたいと思ふや切なるものがあり一筆認めた次第です」との伊東の願いではあったが、鈴木善幸の幹事長就任をめぐって紛糾することとなった。そのようななかで(史料5)伊東書簡③で伊東は、(史料3)伊東書簡①にあるような福田との個人的なパイプを用いた関係修復を期待されていた。しかし、(史料5)伊東書簡③で伊東は、福田との会見を断っている。伊東の官房長官就任が流れた理由も、このあたりにあるように思われる書簡である。

 

 伊東は、大平の希望から官房長官就任が有力視され、幹事長は鈴木の就任が有力視されていた22)。しかし、四年前の三木内閣成立時、幹事長を総裁派閥から出さないという申し合わせがあるため流動的であった。鈴木幹事長、伊東官房長官、特に前者に自民党反主流三派(福田、中曽根、三木の各派)は強く反撥した。それでも、大平・福田会談の結果を受けて12月6日付『東京新聞』『読売新聞』『毎日新聞』および『日本経済新聞』では、鈴木幹事長、伊東官房長官を内定と報じていたものの、同日『朝日新聞』では、斎藤邦吉幹事長、倉石総務会長、河本政調会長および田中六助官房長官との報道がなされた。結果として『朝日新聞』のとおりとなったものの、反主流三派の幹事長人事に対する不満から紛糾し、首班指名は、12月7日午後5時のことであった23)

 

(史料3)伊東書簡①
目録番号200100200
件名書簡
年月日 昭和52年1月24日月曜日
発信者 伊東正義
受信者 大平正芳
形態茶封書B5宏池会原稿用紙14枚、縦書き、青ペン書、封筒表に「大平幹事長様 御直披」

 

昭和五二年一月二四日 月曜日

一、幹事長が多忙のようで、日程がとれず(安田君(安田正治)と連絡)小生も昨夜睡眠がとれなかったのでもセタ詣でを失礼しました。手紙で連絡することをおゆるし下さい。
 昨二三日(日曜日)野沢(福田赳夫、首相)によばれ 午後六時私邸にゆきました。小生から((加筆)組閣以後の去年以来はじめて会った)所感をききたかった、こと、施政方針の内容をレビューしたかったことが会談の趣旨であり あはせて小生の所遇のこともあったようです。

 

一、国会をどう思うか(総理の質問以下同じ)
 首相の権限は国会閉会中に極大値をとり国会開会中に極小値をとるものだ、会ぎが開かれているうちは権力の分散化があらわれるし、閉会するととたんにまた権力は首相の手に帰へってくる。だが、予算案はあまり問題はないと思うー一三月の雇用不安、ベアより首切り(人べらし)減税より仕事が重要になるので これが議事を促進するだろう。

 

一、ロッキードはどう思うか。
 福田法相(福田一)と園田長官(園田直、官房長官)の対応の仕方がまずかった。これらは全部検察庁にまかせるべきだった。検察庁当局が法相を引きうけなかったのは、自信(ロッキード事件の幕引きの自信)がなかったことがはっきりした。(成程そうか、これでわかる、と福田首相が云う)

 

一、証人喚問はどう思うか
 国会にまかせよ。反対すればするほどおかしなこととなるだろう。問題は田中公判との関係だ。

 法務省の安原に答弁させればよいだろう。中曽根(中曽根康弘、衆議院議員)喚問は覚悟しておくべきだ。新自由クがはり切っている。

 

一、灰色高官はどうするか。
 前内閣の方針通りやればよい。これも法務省の考へが中心であることを説きあからせれはよいであろう。

 

一、何か外にないか
 KCIAの問題がロッキードと2重うつしになる。アメリカの方の火種が日本に連動してくる。一番やっかいなことになろう。腹をくくつて取組むべきだろう。

 腐敗防止法案はどうするつもりか(国会になげて議員立法にしたいと思っている。)けつこうだが行政意思の決定が 政治献金と取引関係にあるということが今後世論としてますます言はれるようになるだろう。公開の原則(デュクロージャー)をとり入れる姿勢をましてはどうか法案だけでは売春禁止法のように陰シツなものになると一部の学者は言っている。

 

一、ここで小生が総理は「あまり焦らずにやれ、いつでも、政権をすてる覚悟を固めよ、生きようとせず死なんと考へるのが一番あんしんな道だ。一所懸命にここまでやった、やれることたけやった、これしかないと云う道を私は選んだつもりだと云う姿勢を貫けはよい、だから党改革派閥解消などゆつくりやりませう、と述べる、と中川(中川一郎、衆議院議員)が事務局長となった。この男は実行力がある うまく使ってくれと云う。

 

一、ついで小生から小生のことを色々考へて貰って有難い。このことについてだれと相談されたかときく、と総理は大平君と二人きりだ、久保君は政府、ブーチャンは党と云うことにして考へているのだが、と云う。小生はセタから総理の考へをきき有難いと思つ(て欠カ)いる。セタは小生に総務局長になれ、と言った大変名誉に思ったがすぐには返事をせず帰へて、色々考へた。実は私は福田内閣ができても一切表には出ない決心をしていた。私は名刹を求めない誓ひを立てているのだが 或る人から何か役をもて、まだあなたの仕事は終つていない、と言はれて、総理はいつでも会うことができるようなパス・ポート(大の男がいつも裏門から入るわけにもゆくまいと思い)を頂きたい、と願ったのだ。

 

一、色々考へたすえ、大平幹事長の秘書室長、福田首相の秘書室長など(或は内閣の広報室、審議室、調査室の何らかの役)につけてもらへはよい。官邸はおかしな所なので、何々官待遇とでも云うことにならないか。その上、秘書官室にデスクを置かして頂きたい。之等のことは何も急がない 春三月頃までに実現すればよいと思う(これらのことはまだ大平幹事長にも返事をしていないのだが)何か慣習法的なものにして頂けはよい律令制における「令外の官」を考へて頂けないか、

 

一、以上のようなことを述べて二時間半(夕食を頂く)ほど話をして帰へりました。大平幹事長には大変相すまないのですが 以上のような趣旨を申上げ党総務局次長は御遠慮したい旨を表明しておきました。

 

一、大平幹事長の厚情には深く感謝しています、あなたにお会ひした上、まず御返事をして福田総理に会うべきでしたが順序が逆となりました。失礼の段おゆるし下さい。

 

一、追伸、施政方針演説については内容はまずまずのところでせうか思想的な深みがない、ことを感じました。一応の所見はのべておきましたが、何れ、福田総理の周辺が再考するでせう。あとから斎藤明君(斎藤記者が小生と福田総理との話に同席しました)福田康夫君(福田総理長男)にこの旨よく話はしておきました。

 

一、以上が概要です。何れ面談の上、また感触をお話しすることができるだろうと存じます。

 

一、党改革の構想、新聞紙上にでてきましたがまずまずの所ではないかと存じます。実効があがれば一切の批判はふきとんでしまうでせう。池田の所得倍増計画も当初は、これと同じような受けとられ方でした、私は党改革と参議院選について一つも悲観しては居せん。以上念のため。正)

 

(史料4)伊東書簡②

目録番号200100300
件名書簡(秘親展・総裁選関係)
年月日 昭和53年11月30日
発信者 伊東正義
受信者 大平正芳
形態封書B5伊東正義用箋8枚、縦書き、青ペン書

 

前略

まだ本当かなと夢を見て居るような気持です
明日党大会が開かれれば現実のものとなることでせう
考えて見れば責任は重く恐ろしい気も致します
どうか御健康にはくれぐれも注意されますように御願い致します
それのみが心配です
本日は会津から支持者が上京しまして顔の赤くなるような御話しを致し申訳ございませんでした
どうしても押えきれませんでしたので不本意でしたが何卒御海容の程を、
さて此の時点で意見を申上げることは遠慮して居ましたが、今日鈴木善幸さんに呼ばれて二人だけの間で私の意見を聞かれましたが率直に私の意見を述べましたので御参考迄に申上げます
順不同は御許し下さい

一、幹事長には誰れがよいと思ふとのことでしたので、河本さん(河本敏夫、衆議院議員)が適任と申上げました。理由は貴殿が新らしい挙党体制と云ふことを述べて居られますことに副ふのではないかと思って居ります
河本幹事長が実現すれば貴殿の主張が言行一致となって実現したものとして政治家も、国民も、マスコミも評価するのではないかと思ったからです
鈴木さんは反対でした 理由は次の総裁選を斗ふ場合に他派から幹事長を出しておくことは此度の予備選の様に負ける虞があると云うことでした 私の誤解かもしれませんが何か鈴木さんは目白筋からでも幹事長としての指示でもあるのかなと感じました
河本幹事長が駄目ならどんなポストを考えて居られるのかと私が聞きましたら政調会長か外務大臣ではとのことでしたから私は閣僚なら大蔵大臣ではないのですかと申上げておきました

二、田中派をどう考えるかとのことでしたから、予備選で御世話になったことは十分解りますが、それだからと云って新聞紙上伝えられるように二階堂さん(二階堂進、衆議院議員)を党三役に入れたり閣僚にされることは絶対反対である旨申上げました
二階堂さん良い人であり私も存じ上げて居りますので情に於いて忍びないのですが大平内閣のスタートを汚さぬためにもこれ丈は絶対守って戴きたい思います
私が新聞に鈴木幹事長、斎藤官房長官(斎藤邦吾、衆議院議員)と新聞に予想記事が出た丈で、三木派の人から“何んだ目白筋じやあないか”と抗議の電話があった旨話しましたら鈴木さんはムットして居られました 鈴木さんは二階堂さんの処遇には大に未練をもって居られましたが非情の様ですがくれぐれも絶対にこれ丈は避けて戴きたいと思ひます 極論すれば大平内閣が死んでしまいます

一、青嵐会対策を聞かれましたので、青嵐会の中でも渡辺美智雄君は一味違いますのでこの辺を利用されては如何かと申しておきました

一、私が牛場さん(牛場信彦、福田内閣対外経済担当相)の様な国際経済担当の大臣を設けることは有意義のことと思はれる旨進言しましたら鈴木さんは反対でした(ポストの関係が主たる理由でないかと想像しました)私は代案として例えばアメリカ、東南アジア、ヨーロッパ夫々の地域担当の特命大使を任命して総理、外務大臣が協議の上国際会議に出席させたり、交渉に当らせることを考えては如何かと進言しましたら賛成して居られました。

一、又三木内閣が永井文相(永井道雄)を民間から起用して好評を博しました例にならひ“文部”か“法務”かどちらかに民間人を起用することを考えられては如何と申しましたらどうも貴殿がそれを考えて居られるようだと賛成の様でした

一、最後に官邸の筆頭秘書官について池田内閣時代の伊藤さん(伊藤昌哉)が好評でありましたので例えば新聞記者出身者で適当な人であればその人を採用されることが大平内閣のためだと申上げましたら鈴木さんは笑って居られました

以上 今日の鈴木さんとの“やりとり”の大要を書きました。
全部貴殿の胸三寸にあることであり私の容喙する所ではありませんが意見を聞かれましたので鈴木さんに申述べた私の意見を申述べ御参考にして戴きたいと思います
失礼の段はくれぐれも不悪御海容下さい
大平内閣の船出を立派なものにしたいと思ふや切なるものがあり一筆認めた次第です
くれぐれも御健康には御注意下さい
 右用件のみにて失礼申上げます
三十日夜
 伊東正義
大平正芳殿

 

(史料5)伊東書簡③
目録番号200100500
件名書簡(党人事関係)
年月日 昭和53年12月8日
発信者 伊東正義
受信者 内閣総理大臣大平正芳
形態封筒なし B5コクヨ便箋5枚、縦書き、青ペン書、

 

前略

昨日は御手紙を差上げ愚見を申上げて失礼致しました。
只今鈴木善幸先生に呼ばれ宏池会に来ました。鈴木先生は総理に会って伝えて欲しいとのことでしたが、木村貢君に相談しましたら秘かに総理に御会いすることは不可能とのことですので、一筆認めて木村君に託します
鈴木先生より。

一、金丸氏(金丸信、衆議院議員)が西村副総裁(西村栄一、衆議院議員)を昨夜福田さんに会せようとしたが出来なかった。
其の時先方より長谷川四郎君を幹事長にして貰えれば収るのだがと云うことが、チラット出た。金丸氏からそのことを総理にも伝えたと思ふが(金丸氏の記憶がはっきりして居らないらしいです)鈴木先生から総理に伝えて欲しいと金丸氏が鈴木さんに連絡して来たそうです
鈴木先生の意見は長谷川四郎氏では中川派でありそれに安倍氏(安倍晋太郎、衆議院議員)では中川、福田で二役をとることになり不可であるとの意見でした

二、首班指命(名カ)も終ったのであるから党三役が時間がかかれば組閣尤は今夜にもとりかかるべきだとの意見でした。党三役は十二月の任期迄そのままにして。(鈴木先生の意見)
鈴木先生と話して居る最中に藤尾君(藤尾正行、衆議院議員)より連絡あり今朝福田さんに会って来たが福田さんは総理にも伝えてある通りもうてきぱきやるべしとのことであった なんなら“伊東お前が福田さんに会え”とのことでしたので、そのまま電話は切りました。
しかし藤尾君の云う通りであれば結構ですが福田さんの言は俄かに信用はできません
最初に鈴木先生から私のことについて言及されましたが私は総理の考えも直接聞いて居ませんからと返事しておきました。
本当は御会いするとよいですが、世間がうるさいので、これで失礼致します
昨日は時間ができましたのでブックセンタ一を覗いて来ました 誠に申訳ありません呵々ー。
月並会も昨日会合しましたが代表には入りませんでした

 右取急ぎ御連絡迄

 八日

 伊東正義
内閣総理大臣
 大平正芳学兄

 

(史料6)伊東書簡④

目録番号200100600
件名書簡(政策提言)
年月日 昭和54年8月17日
発信者 伊東正義
受信者 総理大臣大平正芳
形態封書、B5伊東正義用箋10枚、縦書き、青ペン書、

 

拝啓

ご無沙汰申上げて居ます
暑いのに連日ご苦労様です 今夜白河で国会報告会を催し郡山に来ました
明日は郡山で大河原太一郎君の参議院選挙の事前運動をして歩きます
地方を廻って居りましてよく聞く庶民の声を総理の耳に届けますので、是非参考にして戴き月末箱根の研修会の基調演説か選挙公約に採用して戴ければ幸甚と思ひー筆認めました

 

一、政治姿勢
汚職について自民党に対する鋭い批判、不信感が強くあります
結局政治に金がかかり過ぎることが原因ですからなるべく金のかからぬように「選挙制度の改善」徹底した「公営選挙」を打出しては如何でせうか
三木のお株をとり国民の批判にこたえるわけで国民の清潔感に訴えるわけです 選挙後の事の成否は別ですが

 

一、石油対策
末端の庶民は秋から冬にかけての灯油に対する不安感、稲、ホップ等の農産物の乾燥用軽油手当の不安感、現実に軽油が無くて圃場整備事業の進行を遅らせて居る業者等々近い将来の不安感、現実の不足で末端には不平不満の声が相当出て居ります
この不安、不満の声を解消せねば大きな(-)作用となりますので「石油については心配をかけない」「政治が責任をもつ」と強く断言され具体的に例えば「稲乾燥用軽油の確保」に措置をとられるとか何かされては如何でせうか
通産省に流通過程の調査をやらせ新聞に大々的に報道させるのも一手段でないでせうか、庶民に大平総理はわれわれのためにやって呉れているのだとい云ふことを具体的方法で解らせる必要があると思はれます

 

一、財政再建対策
中小商工業者の一般消費税に対する反対は想像以上であります
なぜ財政再建が必要であるのかは大蔵省事務当局流の説明では庶民は解つて居ません
増税の必要性をもつと庶民が納得する説明が必要であります 私は借金財政を続ければ近将来インフレになる危険が多分にあること、(一年たてば日銀買入れができるので)遠い将来老人に対する年金を始め福祉対策を行ふ財源が借金払ひにとられてしまひできなくなること、従って暮しか苦しくなることは明瞭であり財政再建(増税)は止むを得ないと説明して居ります(直接税か間接税か、併用かは増税のコンセンサスが得られてから後のことですから選挙公約は増税迄にしてをくことが得策と思はれますが、如何でせうか

 

一、行政整理の断行
庶民の強い批判は余り働かない公務員が多すぎる云ふ点です その意味で公務員の週休二日制は民間より遅れて一番最後に実施すべきであり 選挙前にきめるにとは愚の骨頂と思はれます
機構縮少(機構いじりでなく)も大切ですが、人員整理の方がもつと重要です
「行政整理の断行」は是非とも強調して下さい これがないと財政再建は絶対に納得して貰えません
しかし選挙後行政整理がどこ迄できるかは力関係で別だと思いますが

 

一、物価対策
なかなかよいきめ手がありませんが、石油対策、財政再建対策等インフレ防止に万全の手段を講ずるといふ姿勢を示す必要があります 特に福田は物価安定に努力したといふ印象を与えて居ますから大平総理もそれ以上物価に関心を払ひ対策を講じて居るのだといふ姿勢が是非必要です

 

何か御参考にと思ひ 旅先のホテルで一筆認めました書き終って月並なありありふれたことと思ひますが、これが庶民の声だと思つて下さい
乱筆にて失礼致します
御健康にはくれぐれも御大事にして下さい
二十一日に帰京致します

 十七日夜十二時
 郡山のホテルにて

伊東正義

総理大臣
 大平正芳殿

 

おわりに

 『大平正芳回顧録 伝記編』で監修者は、「この伝記作成のために収集された膨大な情報は、いずれ分類、整理の上、広く一般に利用できるようにしたいと考えている」と書かれた24)。この言葉を受けつつ、大平正芳関係文書を整理、本目録を作るにあたり、大平正芳の息吹を史料保存というかたちで実現するべく努力したつもりである。

 今後、さらに史料の整備を行い、広く一般に利用できるよう努力したい。現段階は、保存のための整理と目録作成が終了したにすぎない。本目録掲載の諸文書については、「個人情報」等内容から必ずしも公開に適さないものも多い。閲覧場所等公開可能なシステムの構築も今後の課題である(二年程度必要)。

 本目録を作成するにあたり、故大平正芳氏が昭和38年の10月選挙以来、帰郷時に用いた和室(六畳)で作業を行わせていただいた25)。このことだけでも大変光栄なことであった。

 本目録の作成は、最終的に筆者と石田雅春(広島大学文学研究科博士後期課程)の二名で行なった。最後に、本目録が形になったのは、大平正芳記念館の方々のおかげである。特に加地淑久館長ご夫妻には、いつも心にかけていただいた。感謝の言葉で本解題を終えることとしたい。

  • 1)本目録作成には、筆者とともに、石田雅春、木戸謙介、高附彩(広島大学大学院)、瀬涛康賢、高木泰伸(広島大学)、若月剛史(東京大学・院)、笹部真理子(学習院大学…カッコ内は全て当時)の諸氏とおこなった。今日、目録が作成しえたのも彼等のおかげである。また、整理にあたっては、平成11·12年度部科学省科学研究費補助金、基盤研究(B)一般「日本近代史料情報機関設立の具体化に関する研究」(代表、政策研究大学院大学教授伊藤隆)および平成13·14年度部科学省科学研究費補助金、基盤研究(B)一般「日本近代史料情報機関設立の総括的かつ細目に関する研究」(代表、政策研究大学院大学教授伊藤隆)によった。
  • 2)残念ながら、今回整理中の文書群の中には、『最後の旅』に所収された大平正芳日記および昭和51年末以降の森田氏の日記を有していない。
  • 3)『財政つれづれ草』(如水書房、昭和28年)から、田中洋之助との共著『複合力の時代』(昭和53年)まで、七冊を数える。
  • 4)大平正芳関係文書は、「村上達雄論」原稿(昭和31年3月1日、目録番号110202300)、「手紙草稿(「内閣官房長官を拝命して」)」(昭和35年7月、目録番号110200900)から「年賀状原稿」(昭和46年、目録番号110500100)、「一橋同級生への礼状草稿」(昭和54年2月、目録番号110703300)まで多くの手書き草稿・原稿を所収している。
  • 5)「序」『碩滴 IV』(昭和44年秋)。
  • 6)「硯滴目次案」(昭和46年4月2日、目録番号110500900)。
  • 7)森田一著『最後の旅』(行政問題研究所、昭和56年)所収の大平正芳日記が代表的なものである。
  • 8)当初、本政策提言の表題は、ケネディ大統領の演説をまとめた"To Turn the Tide"を借用した「潮の流れを変えよう」であったが、大平本人の希望により「新世紀の開幕」との表題が最終的に正式な表題となり、「潮の流れを変えよう」は副題となっている(『大平正芳回想録 伝記編』(大平正芳回想録刊行会、昭和58年)308~12頁。この「日本の新世紀の開幕」は、『大平正芳回想録 資料編』(大平正芳回想録刊行会、昭和57年)にも所収されている)。
  • 9)本11点の文書中、①~⑨が「潮流変え元原稿」と書かれた封筒に所収され、大平正芳関係文書目録「12.大平正芳原稿」「(1)「潮の流れを変えよう」」に所収されている。⑪文書は「4.大平正芳関係文書(伝記資料及び草稿」に、⑫文書は「11.大平事務所作成ファイル」に所収されている。
  • 10)福島正光「大平さんの政治文章づくり」『大平正芳 政治的遺産』(公文俊平・香山健一・佐藤誠三郎監修、大平正芳記念財団、平成6年)。
  • 11)本文書の複製が「4.伝記資料及び草稿」に所収されている(目録番号042000200「潮の流れを変えよう」)。
  • 12)この「田園都市」という言葉は、安田正治・福島正光両氏の発案によるものである(前掲注10)。
  • 13)大平正芳回顧録刊行会編著『大平正芳回顧録‐伝記編』248~9頁。
  • 14)福田赴夫からの情報があることから見て、大平自身の手によるものとは考えにくい。福田との関係から池田の秘書官であった故伊藤昌哉氏の手によるものと推察される。また、伊藤は、池田の辞任決意表明後における総裁選定過程について「総裁候補をもたない四派の結集はなかなかできない。やればまとまるのだが、なぜか前尾は積極的でなかった。藤山は支持者数が少なく、競争の圏内から去った。河野は藤山との連合を前尾に示し、協力支持を要請しようとするが、前尾は乗らない。河野は佐藤と二人で決戦しなければならぬハメとなった。両者の支持勢力は四対六というかたちで、佐藤の優位は日ましに動かないものになった」と述べているが、内容的に前者「池田内閣総理大臣の辞任決意表明」と認識面で共通している(伊藤昌哉著『池田勇人その生と死』(昭和41年、至誠堂)263頁)。
  • 15)この点は、佐藤日記でも確認ができる(「明日藤山君帰国、前尾の線動きだすか。田中‐大平ラインに反発を見せ前尾抬頭。警戒を要すべきことなり。」昭和39年10月26日、佐藤栄作著『佐藤栄作日記』第二巻、朝日新聞社、平成10年、191頁)。
  • 16)17)大平正芳著『春風秋雨』鹿島研究所出版会、昭和41年。
  • 18)「亀裂残し…自民新体制」『毎日新聞』昭和53年11月28日。
  • 19)「大平政権 なるか挙党人事」『産経新聞』53年11月28日。
  • 20)「挙党体制どう盛る」『日本経済新聞』『毎日新聞」昭和53年11月30日。
  • 21)「どう動く 大平融和体制 記者座談会」『東京新聞』昭和53年12月3日。
  • 22)「大平党体制、骨格固まる」『毎日新聞』昭和53年12月3日。
  • 23)大平と伊東正義との関係は、興亜院時代からの親友であり、農林省事務次官をつとめた伊東が政界入りしたのも、大平を助けるためだったとされる。池田派時代から大平派を自称した伊東にとって大平内閣の成立は、まさに夢の実現であった。当然、自らも大平を補佐する立場にたちかったであろうし、大平もそのように考えていたと思われる。しかし、閣僚名簿から伊東の名は外れ、「俺だって、何故かなあと思ったことはあるよ」としながらも黙して語らず(日高壮平「長官の持ち味」『伊東正義先生を偲ぶ』伊東正義先生回想録刊行会編、平成7年、361頁)、
    「不満そうな顔をしている母をはじめ家族に対して父(大平)はただ、「伊東は分かってくれるだろう」と言うだけ」だったとされる(大平裕「伊東先生と父・大平正芳」『伊東正義先生を偲ぶ』184頁)。その後、伊東は第二次大平内閣の官房長官となり、大平の急逝後、総理代理、葬儀委員長となった。両者の友情は、政界でも比類ないものとされている。
  • 24)「監修者あとがき」『大平正芳回想録 伝記編』(大平正芳回想録刊行会、昭和58年)623頁。監修者は、公文俊平氏・故香山健一氏・故佐藤誠三郎氏の三名。
  • 25)本部屋の窓は、警備関係者の要請のため、総理就任時から防弾ガラスに改修されている。現在、防弾ガラス内のゲル状物質が劣化して部室の窓から外を見ることはできない。

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解題 II

福永 文夫(獨協大学教授)

 以下の資料は、大平正芳記念財団が所蔵していたもので、本オンライン版初出の資料である。本資料は、編者が『大平正芳全著作集(全7巻)』(講談社、2010~2012年)刊行中に、財団から提供を受け、調査・整理したものである。

 

22. 大平正芳日記、ノート(220000000)(18文書)

(1)大平正芳日記(220100000)(1冊)
 日記は、“VIENNA-Am Hof Nach einer Radierung von Karl Tucek, Wien”(ウィーン、画家カール・トゥチェックのアム・ホフ広場を描いたエッチング作品の模写)との記載のある絵葉書を表紙にあしらった、茶色の革製ノートに記されている。1978年11月27日に行われた初めての自民党総裁予備選挙で勝利した翌日の、28日から翌79年2月12日までに加えて、3月初め、4月30日~5月7日までの項がまとめて書かれている。

(2)ノート(220200000)(4冊)
 ノートは4冊ある。ノート1は、住所録あるいは電話帳とでも呼ぶべき冊子を用いている。メモで、東西両陣営(NATOとワルシャワ条約機構)の兵力の比較から、福田ドクトリンに関する批評、そして対仏貿易、日本の国際収支等について記している。防衛問題等への関心を示すものであるが、東京サミットを前にした79年初め頃の覚書と思われる。ノート2は、「GERMAN NOTE」と印された小ぶりの布製ノートを用いている。米国首脳の個性等の記述から考えると、79年4月末の訪米前の勉強会か、それらを含めて大平が考え整理したものと思われる。ノート3とノート4はいずれも、同じ廣済堂印刷・出版製の日記帳‘80 Desk Diary’をそれぞれ使用している。森田一著『最後の旅』(行政問題研究所出版局、1981年)に写真版で原本が掲載されている。前者は大平にとって結果的に最後の旅となった米国、メキシコ、カナダ訪問前に書かれたメモと思われる。後者は大平が80年代に入ってから書き残した箴言等が記載されている。

(3)手帳(220300000)(13冊)
 手帳は、年代不詳の1冊と、1951年と1956年、1971年から80年までの計13冊を数える。51年は池田勇人蔵相秘書官時代のものであり、この夏大平はアメリカに視察の旅(8月13日~10月下旬)に出ている。56年は保守合同の翌年で、日ソ国交回復交渉や保守政党のあり方に関するメモがある。

 71年からの10年分にはいずれも市販の能率手帳であるが、表紙カバー右下にM.OHIRAのネームが金文字で入っている。手帳は月間予定表と「日記欄」からなる。日記欄は左頁が週間予定表で、毎週日曜日から土曜日まで曜日ごとに1時間刻みでスケジュールが、右頁には折に触れ書き留めた大平の手になるメモが書かれている。メモについてはすでに、主要な記述(183点)を『大平正芳全著作集7』に翻刻のうえ掲載している。

 

23. 大平正芳宛書簡

(1)イエスの僕会関係書簡(230100000)(18点)
 藤川千代子氏所蔵のイエスの僕会関係の書簡類を収めている。佐藤定吉はじめイエスの僕会からの葉書・封書が中心であるが、大平が藤川利三郎・歌代ほか宛(昭和4年6月26日、昭和8年1月23日、同8月8日の消印のある)葉書と年代不詳の2通の計5通ある。

(2)橋本清氏、大平宛書簡(230200000)(22点)
 橋本清氏は、高松高商の同期生で、その後神戸商大(現神戸大学)に進み、横浜正金銀行(東京銀行の前身)に入行し常務となったが、病気のため退社した。進路は異なるが、大平が政治家となった後も、私邸に自由に出入りできる生涯の親友であった。その友情の厚さを示す葉書・封書22通は、大平の東京商大時代(8通)から、大蔵省に入り、横浜税務署(3通)、仙台税務署(8通)、蒙彊(3通)と転勤を重ねる間の、昭和8年から昭和14年まである。

(3)志げ子夫人ほか張家口時代の書簡(230300000)(13点)
 大平が蒙彊連絡部の経済課主任として張家口に赴任したのは1939(昭和14年)6月だった。翌40年10月帰国、興亜院本部勤務となっている。ここには、大平の家族・親族からの書簡を収めている。志げ子夫人からの手紙は10通あり、昭和14~15年までの張家口に宛てて出された8通と、あと2通は大平がアメリカに行った時のものである。そのほか、大平の実母サクの大平宛の手紙と、志げ子夫人の鈴木正(鈴木三樹之助の婿養子)宛の手紙が収められている。

(4)その他(230400000)(23通)
 従兄の大平秀雄(2通)、実兄数光(4通)、義父の鈴木三樹之助(2通)らからの手紙を収めている。多くは贈り物のお礼や家族に対する挨拶である。

(5)大蔵省同僚ほか蒙彊・張家口時代(230500000)(29通)
 昭和14年~15年までの手紙を収めている。宮川新一郎、福田久男、紙田千鶴雄、山下武利、篠川正次、若槻克彦は大蔵省1936(昭和11)年の同期入省。宮川と若槻は九賢会の仲間。石原周夫(1934年入省)と橋本龍伍(1934年入省)は先輩で、高橋俊英(1939年入省)は大平が蔵相時の公正取引委員長である。浜田祐生は、興亜院の同僚である。

 

<参考>「14. スクラップ関係」標題目録

 

国政と大平外交:昭和47年8月1日~9月30日
国政と大平外交:昭和47年10月1日~11月30日 1
国政と大平外交:昭和47年10月1日~11月30日 2
国政と大平外交:昭和47年12月1日~12月31日
国政と大平外交:昭和48年1月14日~3月31日
国政と大平外交:昭和48年4月1日~5月15日 1
国政と大平外交:昭和48年4月1日~5月15日 2
国政と大平外交:昭和48年5月16日~6月30日
国政と大平外交:昭和48年7月1日~7月31日 1
国政と大平外交:昭和48年7月1日~7月31日 2
国政と大平外交:昭和48年8月1日~8月31日
国政と大平外交:昭和48年9月1日~9月31日 1
国政と大平外交:昭和48年9月1日~9月31日 2
国政と大平外交:昭和48年10月1日~10月31日 1
国政と大平外交:昭和48年10月1日~10月31日 2
国政と大平外交:昭和48年11月1日~11月30日
国政と大平外交:昭和48年12月1日~12月31日
国政と大平外交:昭和49年1月1日~1月31日 1
国政と大平外交:昭和49年1月1日~1月31日 2
国政と大平外交:昭和49年2月1日~2月28日
国政と大平外交:昭和49年3月1日~4月30日
国政と大平外交:昭和49年5月1日~7月16日 1
国政と大平外交:昭和49年5月1日~7月16日 2
田中内閣の国政一般:昭和49年7月16日~7月31日
田中内閣の国政一般:昭和49年8月1日~8月31日 1
田中内閣の国政一般:昭和49年9月1日~9月30日 1
田中内閣の国政一般:昭和49年10月1日~10月31日 1
田中内閣の国政一般:昭和49年10月1日~10月31日 2
田中内閣の国政一般:昭和49年11月1日~11月30日
三木政治と大平財政:昭和49年12月9日~12月31日 1
三木政治と大平財政:昭和49年12月9日~12月31日 2
三木政治と大平財政:昭和50年1月1日~1月20日 1
三木政治と大平財政:昭和50年1月1日~1月20日 2
三木政治と大平財政:昭和50年1月21日~2月20日 1
三木政治と大平財政:昭和50年1月21日~2月20日 2
三木政治と大平財政:昭和50年2月21日~4月30日 1
三木政治と大平財政:昭和50年2月21日~4月30日 2
三木政治と大平財政:昭和50年5月1日~6月30日 1
三木政治と大平財政:昭和50年5月1日~6月30日 2
三木政治と大平財政:昭和50年7月1日~8月31日 1
三木政治と大平財政:昭和50年7月1日~8月31日 2
三木政治と大平財政:昭和50年11月15日
三木政治と大平財政:昭和50年9月1日~9月30日
南北朝鮮の政策① 第一号 昭和四十九年九月一日
南北朝鮮の政策② 第一号 昭和四十九年九月一日
南北朝鮮政策 (昭和48年5月1日~9月30日)
南北鮮政策 (昭和48年5月1日~9月30日) 2
南北鮮政策 (昭和48年10月1日~12月31日) 1
南北鮮政策 (昭和48年10月1日~12月31日) 2
南北鮮政策 (昭和49年1月1日~8月31日) 1
南北鮮政策 (昭和49年1月1日~8月31日) 2
南北朝鮮の政策 (昭和49年9月1日~) 1
南北朝鮮の政策 (昭和49年9月1日~) 2
日中、党、派閥関係 (昭和49年3月1日~3月31日) 1
日中、党、派閥関係 (昭和49年3月1日~3月31日) 2
日中、党、派閥関係 (昭和49年4月1日~4月30日) 1
日中、党、派閥関係 (昭和49年4月1日~4月30日) 2
日中、党、派閥関係 (昭和48年5月1日~12月31日) 1
日中、党、派閥関係 (昭和48年5月1日~12月31日) 2
大平大臣訪欧関係 8月25日~9月4日 1
大平大臣訪欧関係 8月25日~9月4日 2
昭和37年9月15日~10月7日 アメリカ・ヨーロッパ訪問
昭和37年9月15日~10月7日 アメリカ、ヨーロッパ出張中各紙 No.2
昭和44年10月~46年11月 (1)
佐藤政権の末期政策(昭和47年2月1日~6月30日)
 昭和47年2月28日 ニクソン大統領訪中関係
昭和28年6月~32年2月
昭和47年 新聞切り抜き 72年総裁選
総裁選挙一(昭和47年6月)
昭和47年12月~昭和48年
日中航空協定(昭和49年)
金脈追究とポスト田中(昭和49年10月19日~12月3日) 1
金脈追究とポスト田中(昭和49年10月19日~12月3日) 2
金脈追究とポスト田中(昭和49年12月1日~12月9日) 
週刊紙上の田中金脈追究・その関連 (昭和49年)
フォード大統領訪日記録(昭和49年11月18日~11月22日)
雑誌週刊紙記事集 附. 大平邸火災(昭和四十九年一月十二日)
三木政治と大平財政 (昭和50年10月1日~11月14日) 1
三木政治と大平財政 (昭和50年10月1日~11月14日) 2
三木首相に退陣要求・三木改造内閣(昭和51年1月5日~昭和52年2月5日)
 昭和51年5月24日~昭和58年5月4日 NO.1
 昭和51年5月24日~昭和58年5月4日 NO.2
政変シリーズ(昭和51年8月30日~9月11日)

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史料紹介 大平正芳関係文書所蔵「取材メモ」について

石田 雅春(広島大学文学研究科博士課程後期)

はじめに

本目録によって紹介される大平正芳関係文書の中には、自筆の原稿やメモ、官庁によって作成された記者会見要旨、記者による取材メモ、森田一秘書官の手による日記、メディア資料など、大平正芳の思想をうかがうことのできる史料が数多く残されている。そのような史料の中、本稿では取材メモについて紹介したい。

 記者という存在は、「朝まわり」「夜まわり」「番記者」という言葉に象徴されるように、取材の必要性から特定の政治家と四六時中行動を共にしなければならない。そのため記者と政治家の問には、しばしば取材する側・される側という枠を越えた信頼関係が形成され、政治家に情報を提供したり、ブレ一ンとして政治家の相談相手になったりする者もある。また、彼らの中には政治家に見込まれて秘書や代議士になる者もある。このように実際の政局にも深く関与し情報を共有した記者たちが残した記録は、一次史料の乏しい戦後の政治史研究において貴重な文献となっている1)

 本稿で紹介する取材メモとは、記者が実際に政治家から見聞きしたことを書き留めたメモ書きのことであり、同時代においては報道の根拠として利用された。ただし記者の集めた情報は全てがありのままに報道された訳ではなく、編集によって省略されたり脚色された可能性がある。

 また本史料は『大平正芳回想録』(以下回想録と略)編纂の過程で収集された史料の一部であり、断片的ながらも大平正芳の生の声を伝えるものであるため、回想録においても本史料を踏まえた記述が散見される。ただ、本史料の中には大平正芳以外の政治家への取材メモも含まれており、当該期における政治家同士の思惑の齟齬や人間関係を解明する上で貴重な史料である。

 大平正芳関係文書の中に残されている取材メモは、形態から判断して

①外務大臣期(田中内閣)
目録番号044900100~044900700

②幹事長期(福田内閣)・首相期(大平内閣)
目録番号044501200、044501400、044501600、044501800、044501900

③首相期(大平内閣)・逝去後(鈴木内閣)
目録番号045000100、0045000200

の三つに大別することが出来る。以下それぞれについて見ていく。

①外務大臣期(田中内閣)

 「梶原拝」と記された封筒の中に共同通信社専用のメモ帳(15×8.5cm)が7冊入っていた。②や③がコピーであるのに対して①は原本であり、実際に番記者が現場で使用したものと思われる。それぞれのメモ帳には政治家の発言がボールペンや蛍光ペンで走り書きされている。また、発言の記録以外に雑感やデータを雑然と書き込んでおり、前後関係や発言者・場所・日時の特定が困難な箇所が何カ所かある。主な内容は、以下の通りである。

・日中国交正常化説明等のための訪米・訪ソ関係(昭和47年10月16~25日)
・第二次田中内閣成立関係(昭和47年12月22日)
・日中航空協定締結のための訪中関係(昭和49年1月2~6日)

 内容の大部分は大平の言動であり、外交政策の基本方針や見通しを中心に記録されている。特に表紙に青ボールペンで「大平 48.1.12-13 香川帰り」と記された取材メモ(実際には昭和49年のもの、044900400)には、帰国してから約一週間後に大平が同行の記者に語った日中航空協定交渉の経緯が記録されている(史料1)。

 日中航空協定は日中国交正常化(昭和47年9月)の具体的成果を示すものとして、日中双方が早期締結を希望していた。しかし日台路線の扱いについて日中双方の折り合いがつかず、日本政府の政治的決断が迫られていた。このような状況を受けて昭和49年1月2日~6日にかけて大平外相は北京を訪問し、実質上の合意を形成した2)。この時の交渉で「北京滞在中の大平は、文字通り“独り歩き”の毎日だった。毛沢東との会談も、大平は単身で臨んでいる。中国側は周首相など関係者が同席しているのに、現地の小川大使はもちろん日本側の通訳すら参加していない。「外交慣行を無視するものだ。大臣も軽率すぎる」との声が外務省の若手官僚からでるほどだった」と伝えられている3)

 同行した秘書の真鍋賢二は「交渉の内容については、いつかオヤジさんが書くかもしれない。私は責任ある交渉の当事者ではないから、私が直接見聞したことだけを紹介したい。」と断った上で大平の行動を記録しているが、本史料はその交渉の核心部分の回想である4)。史料の最後の部分には、困難な状況下で仕事を成し遂げた大平の自負がにじみ出ており興味深い。

 また、表紙に黒ボールペンで「田中内閣」と記された取材メモ(044900700)には、総選挙後(昭和47年12月10日投票)の田中内閣改造について記されており、大平以外にも「トミ」(橋本登美三郎と推定)や鈴木善幸からも取材を行っている点が注目される。

 

(史料1)
 1/12(平井たくし参院香川補選応援のため香川入りの途中)
 8. 羽田発→10:10 高松着
 全日空機の中

 〇北京はきつかったなあ。実は人に言えないが、あの時、カゼの他にも石があってな、最悪の状態だった。北京に着いて血尿が出続けていたんだよ。じん臓結石だ。前に外相をやった時に一度出たことがあった。それから11年目でまた出たんだな。こいつは、石がたまると……。右に3ツ、左に1つあったようだが、身体が腰といわず背中といわずだるくて仕方ない。その石がだんだん下へ降りてくる。すると尿が出口をふさがれてたまらなく痛くなる。香港に着いた時からだった。だから香港の記者会見なんてまるで気が入らない。それどころではなかったわけさ。

〇それにしても北京ではきつかった。毛主席が会ってくれるといった時も調子は最悪でちっとも会いたくなかったよ。しかし折角のことだしそうも行くまい。そんなわけで本来なら話す内容も整理して行くところ、出たとこ勝負になってこまった。

 〇毛さんはなかなか楽しい人でな。周以下を前にしてオレに『大平さん、もう航空協定で少しやり合いましたか』と聞くんだ。周が『いや、航空協定などは日中正常化を成しとげたことからすれば小さなことです』というから、オレは切り返してやってた(ママ)んだ。『いや主席。周ソーリー(ママ)はいつもそういわれるんだが、小さいことならあまりこだわらなくても、よいでな(ママ)いですか。小さいことは私にまかせたらよいのです』と。そうしたら、毛が『まぁ、少しゆずってあげたらどうです』と周にいっていたよ。

 ☆〔※1〕後で考えてみると、この時に中国側がオレのところまで、折れてくるということだったんだろうが……。この時は、ヘェーという程度で“やった”という感じはなかった。

 〇毛はまた米中関係に言及し、米国は日本にくらべてまんまんでいだー(ママ)というようなことをいっていた。中国は米国のテンポのゆるいことに少し不満のようだ。そこでオレは毛に『いや主席、それでも周ソーリは大平はやるのがのろいと思われているようなのですよ』といってやった。そうしたら周は笑っていたよ。

 〇おれは初めから姫以下はMにしてなかった。相手は実際周1人だものな。

 〇航空については5日の深夜会談を終わったところでなんらまとまってはいなかった。中国は原則をいう。オレは、それに対し日本から台湾を切るわけには行かんといい、がんばった。大きな声ではいえんが『中華航空という名称にしてもそれは“中華”とつけばまぎらわしいし、二つの中国につながる誤解も与えかねないからない方がよいにきまっている。しかし日本に英国屋という洋服屋もあれば、アメリカ屋というクツ屋もあるが、それがなにも米英を代表するもんでない。中華航空なんていったて(ママ)、台湾を代表するものでなし、大中国がそんな小さなことにこだわりなさんな』と周にいったわけさ。

 〇それでも5日の夜は話がつかなかった。それでは周さん、私は帰らせてもらいますよーといって1.30に会談終わって、迎ひん館へ帰ってから床へ入ったが寝られなかった。

 〇中国はこんどは礼をつくしてくれた。しかし、話しはまとまらない。継続交渉にする以外にない。それでは他のもの(海運、漁業)の段取りをいつどうするかということを考え、あしたの別れに当たって勧じん帳を結ぶことを考えていたんだ。

 〇ところが中国側から(6日?)(姫)が待ってくれ、少し休憩したいといい出した。そして最後の会談で大平さんにご迷惑はおかけしないーといった。

 ☆〔※2〕周は航空協定やれるのは大平しかいないし、こん回を逃したらできないと考えていた。『大平さん、あなたがいる間に片づけましょう』ともいった。しかし身体は別として一番きつかったのは、正常化の時だ。あの時は出来なかったら死ぬ気でいた。

 〇田中に7日に報告したら、お前さんが正月に行ってくれてよかった~といっていたよ。

 〇まあ一、もうこれで日中もヤマは越えたし、そろそろオれ(ママ)の役目も終わったな。あとは石油の方さ。少し見通しをつけておいて、少し花鳥風月を楽しむことにするか。どうだい?

〔※1の部分に以下の注記あり〕
☆毛に会せ(ママ)うとした時、周は解決を考えていたフシがある。
〔※2の部分に以下の注記あり〕
田中とオレでは台湾に対する認識が違う。田中はおおづかみで、あれでは中国と話をまとめることはできないんだ。

②幹事長期(福田内閣)・首相期

 「沢氏資料コピー」(044500000)と記された封筒の中に、新聞記事のコピー等とともに入っていた。①が現場での速記であるのに対して、②は一度清書された形跡(コメント、注記)があり、おそらく現場の記者がデスクに報告した際のメモと思われる。また、大平正芳関係文書に収集されているものはコピーであり、原本はルーズリーフだったと推定される。

 内容について表1にまとめた。時期的には幹事長を務めていた昭和52年の参議院選挙(7月10日投票)と同年11月28日の福田内閣改造、および首相を務めていた昭和54年1~2月、6月が中心である。内容的には幹事長期は政局に関する談話が中心なのに対し、首相期は公式の記者会見や政策が中心という特徴がある。取材の対象も大平正芳にとどまらず、与野党の実力者が数多く含まれており、貴重な史料と言える。

 そして①や③と異なり、記者自身の質問内容やコメント(大平への取材を中心に)が盛り込まれている点が注目される。例えば、昭和52年10月27日(夜)に記者が福田内閣改造の見通しを問いかけたのに対して、大平は、「国会が終わったら、キミたちの意見を聞いてやるかやらんか決めるよ。」と答えている。これに対して記者は「(ヤルことが決まつているときに使う口ぐせ)」というコメントをつけており興味深い。

 また、「オフレコ」と注記がなされている取材メモはわずかに一点しか含まれていない。これは昭和54年2月23日に行われた官邸キャップとの懇談内容である(史料2)。

 大平は、日本の総理が就任すると直ちにアメリカに表敬訪問するという慣例を、そろそろやめたらどうかという気持ちが強かったと言われている5)。そのため、就任直後から訪米には消極的な姿勢を示していたが、昭和54年2月22日に東京有楽町で開かれた外国特派員協会の昼食会で訪米を表明した6)。これを受けて訪米問題を中心に懇談が行われている。当時日米間の懸案として電電公社問題等をマスコミは盛んに取り上げていたが、大平はこれらを枝葉末節の問題と認識しており、大平のものの見方がうかがえ興味深い。

 外交問題以外には、解散問題、物価問題、E2C(早期警戒機)凍結問題が話題になっている。この中で注目されるのは解散問題で、田中六助官房長官が間に入っているものの、この時点で大平が秋の解散の決意を固めていたと受けとれるやりとりになっている。3月8日に津島雄二議員が官邸を訪れた際、大平が「君たち一年生議員は解散をどう思うか」と尋ねたと伝えられているが、この出来事を裏付けていると思われる7)

 

(史料2)

大平首相と官邸キャップとの懇談(オフレコ)

79年2月23日午後2時~3時 官邸小食堂

[首相訪米問題]
1. カーター大統領との会談では、個々の経済問題をとりあげるつもりはない。電電公社問題その他の懸案は訪米前に片づけるつもりだ。
1. 日米首脳会談では、こちらとしては①高度の問題②念を押しておかねばならない問題の二つを考えている。念を押しておかねばならない問題の中には、核燃料の再処理問題が含まれる。
1. 米議会対策といっても、農村議員、都市議員いろいろあって難しい。この方は、これから私の訪米前に、自民党議員にそれぞれの立場から訪米してもらって、多方面の接触をしてもらう以外にないと考えている。
1. 米議会が日本をねらってきているのは、日本が攻撃しやすいからだ。これがイスラエルであれば、攻撃すれば大へんなことになるが、日本は攻撃されても、反撃する力がないから、彼らにとって攻撃しやすいのだ。
1. 日米関係の改善は、そう簡単にいくとは考えていない。これは、じっくり腰をおちつけて取りくまなければならない問題という認識をもっている。
1. 訪米前に気になっていることが2つある。第一は、経常収支、貿易収支など数字の動きだ。一月の数字は、まずまずだったので、外人記者クラブでしゃべったが、二月、三月の数字がどうなっているか、気がかりだ。数字は、何よりもよく物語るからだ。第2は、電電公社問題など、象徴的になっている問題を、訪米前に片づけることだ。

[東京サミット]〔※3〕
1. 東京サミットの議題は、準備会議で、参加各国の代表によって決めてもらう。各国のうち、何といってもアメリカなので、訪米のさい、カーター大統領には、よくお願いするつもりだ。

[訪中問題]
鄧小平とは、大平が訪中したあとで、華国峰(鋒カ)から訪日しようということを約束したが、いつまでに訪中するという約束はしていない。
(中越紛争が起こって、訪中できるのか)
中国は忙がしい(ママ)だろうな。私が訪中してもいいような状況になることが望ましいが……。

[解散問題]
(首相訪米、東京サミット、そして秋の解散が、いまや政界の常識になっているが……)新聞論調と世論の動向をみて決めるよ。
(ママ)「解散を否定せず」という新聞の見出しになりますよというと大平は笑って答えず。わきから、田中官房長官が「解散を示唆」などと書かないで下さいよ。
(しばらく、間を置いてから)
外遊、内遊、いろいろあるよ。
(内遊というのは、どんな内遊ですか)
ボクの出番を求めているものが起きてくるんでね。
(しばらく間を置いて‐)
大阪の府知事選にはいかねばならないし、東京都知事選はもちろんだ、……。

 

[物価問題]
1. 物価問題は相当神経を配っている。
1. 石油については、もう大丈夫と考えているし、商品市況の方も、かつての高水準のところまでの値上がりなら、そう心配することはない。
1. 金利水準については、金融当局は検討しているとは思うが、何もいってきていない。
1. (一般消費税が、物価値上げを呼ばないか)
あれは、税金が上がるので、物価の値上げじゃない。
‐以上完全オフレコの約束につき、その旨、取り扱いに注意して下さい。
 代理出席 澤

追加
[E2C凍結問題]
1. E2C問題については、凍結解除の時期が問題だ。E2Cの発注が来年に延びるようなことは困る。
1. E2C問題は、議長がどのような形ででてくるか、その辺がまだわからない。

〔※3の部分に以下の重複あり〕
[東京サミット]
1. 東京サミットの議題を何にするかは、日本が決めるつもりはない。参加各国の意向を聞いて準備会議で決めてもらう。
1. 参加各国のうち、何といってもアメリカだ。アメリカにはよくお願いして

③首相期(大平内閣)・逝去後(鈴木内閣)

 表に「相馬 拝」と記された封筒に(045000000)にクリップで二つの束にまとめられて入れられていた。②と同様に清書されている。大平正芳関係文書に収蔵されているものはコピーであり原本はカードと推定される。記録は総じて断片的であり、複数の情報を同時に一人の人物が筆記していることから、原文書はデスクが各番記者からの情報を集約して記録する「情報簿」ではないかと思われる。

 内容について表2にまとめた。一覧すると分かるように政局に関する情報に限定され、政策に関する談話は①や②に比べて極端に少ない。ただし、自民党の実力者たちをほぼ網羅しており、内閣不信任案提出直前から鈴木内閣成立までの過程を跡づけることができる(鈴木内閣での伊東正義外相辞任問題についても若干含む)。同一の質問に対して各政治家がそれぞれ違った答えを返しており、報道の難しさを改めて実感する史料である。大平自身の談話記録は4点しかなく、不信任案について語っているのはそのうち1点のみである(史料3)。不信任案可決後、大平は5月31日に入院し、6月12日に急逝するため、大平正芳関係文書の中にもこの件に関する文書はほとんど残っていない8)。そのため、大平の認識がうかがえる貴重な史料であり、回想録でもその一部が抜粋されている9)

また、オフレコと記されている取材メモは1点のみで、昭和55年7月9日夜に桜内義雄幹事長が鈴木内閣の人事についてコメントしている。

 

(史料3)
大平‐① 80.5.15.(番懇)

 こんなことになるとは思ってもいなかった。ベルが鳴れば三福中は入ってくると思っていた。幹事長を通じて返事はしてあるので私から直接三福に電話するつもりはなかった。共産の演説のとき、もうこれは不信任可決と思った。総辞職など、これっぽっちも思わなかった。福田も三木も総理をやったんだから、それぐらいは知っているだろう。可決された瞬間は何という考えも浮ばなかった。国会は議長が進めるものなので、休憩に入れるつもりもなかった。党紀違反は、ただされねばならないが、欠席組もいろんな事情があるのだろうから、それとはかっていかねばならない。政党は夫婦みたいなもので、こんなことがあってもどうということでもない。オレだって鳩山のときに保利と欠席した。政党は分離と独立を繰り返していくものだ。去年の首相指名のときは、別の名前を書かれたが、今回は欠席というのだから、状況はよくなっている。野党の政権担当能力がないので今度も自民党だ。
(三福と会う気はないか)なんで会うのか、その気はない。
(事実上の分裂選挙ではないのか)総裁以下、号令一下、挙党一致で斗ったことなど一度もない。

おわりに

 近年、オーラル・ヒストリーヘの関心の高まりに伴い、インタビューという手法に対する注目が高まりつつあるが、それは現在の記録保存の問題にとどまらず、過去において蓄積された情報を再整理する問題も含んでいると思われる10)。今回、本稿を執筆するために取材メモについて調べたが、多くの情報は収集されたにもかかわらず、報道に至っていないということを改めて確認した。この理由について、塩口喜乙(朝日新聞記者)は次のように語っている11)

(前略)新聞にはスペースという物理的制約や、感情、利書にもとづく本音の部分は記しにくいといった事情があって、活字となって残るのはごく限定されることになる。紙面は氷山の一角であって、水面下には、おびただしい情報の山がある。この日の目を浴びなかった情報は、直接取材した記者たちの脳裏に刻まれたり、現役、OBの記者たちの語り草として生きている(後略)

 今回取り上げた取材メモもまた、同時代において活字にならなかった情報である。ありのままに近い状態で記録した得難い情報であるが、他の一次史料や証言と付き合わせて、発言の真意を見定める必要があることは言うまでもない。かつて福田内閣の頃に大平は「事実と違っていても、マスコミで報道されることによって、それは事実として独り歩きしはじめる。そういう意味では、歴史的事実とは、現実と報道の間に形成されているものだな」と述べたといわれている12)。今回取材メモに触れてみて、回顧録や後年の聞き取りとは違う生の声の記録であり、認識を新たにしたことが少なくなかった。残念ながら本稿では、紙幅の都合でごく一部しか紹介できなかったが、今後、当該期の歴史研究を進める上で、マスコミの描いた時代像を乗り越える手がかりとして活用していきたい。

  • 1)池田政権以降で主なものを挙げると、吉村克己(サンケイ)『池田政権・一五七五日』(行政問題研究所、昭和60年)、伊藤昌哉(西日本)『池田勇人その生と死』(至誠堂、昭和42年)、楠田実(サンケイ)『首席秘書官』(文芸春秋社、昭和50年)、同前『佐藤政権・ニ七九七日』上下(行政問題研究所、昭和58年)、早坂茂三(東京タイムス)『政治家田中角栄』(中央公論社、昭和62年)、中村慶一郎(読売)『福田政権・七一四日』(行政問題研究所、昭和59年)、清宮竜(内外ニュース)『福田政権・七一四日』(行政問題研究所、昭和59年)、川内一誠(朝日)『大平政権・五五四日』(行政問題研究所、昭和57年)等。
  • 2)時事通信社『時事年鑑 昭和50年版』(時事通信社、昭和50年)78~80頁参照。
  • 3)大久保昭三『裸の政界』(サイマル出版会、昭和50年)163頁。また、交渉全般については、藤井宏昭「日中航空協定交渉」(大平正芳記念財団編『去華就実 聞き書き大平正芳』〈大平正芳記念財団、平成12年〉所収)参照。
  • 4)真鍋賢二『私の見た大平正芳』(イメージメイカーズ、昭和51年)159~169頁。
  • 5)新井俊三・森田一『文人宰相大平正芳』(春秋社、昭和57年)75頁、前掲『大平政権・五五四日』126~128頁。
  • 6)『朝日新聞』昭和54年2月23日。
  • 7)伊藤昌哉『自民党戦国史』(朝日ソノラマ、昭和57年)482頁。
  • 8)管見の限りでは、第36回総選挙立候補の挨拶草稿(第一次から第四次まで、目録番号111600901~111600904)と大平正芳メモ(目録番号111703200)を確認している。
  • 9)大平正芳回想録刊行会『大平正芳回想録 伝記編』(大平正芳回想録刊行会、昭和57年)559~600頁。
  • 10)政策研究院編『政策とオーラルヒストリー』(中央公論社、平成10年)、御厨貴『ォーラル・ヒストリー』(中央公論新社、平成14年)参照。
  • 11)塩口喜乙『朝日新聞記者の証言 1』(朝日ソノラマ、昭和55年)335頁。
  • 12)前掲『大平正芳回想録 伝記編』447頁。
表1 取材メモー覧(②幹事長期、首相期)
月日 発言者 主な内容 備考
昭和50年 10月30日 佐々木良作 社公民の経緯、三木武夫との提携問題の背景、今後の展望、春日‐河野提携問題  
昭和51年 6月12日 矢野絢也 新党問題、公明党が新党を急ぐ理由、社会党との関係、「考える会の資金」  
昭和52年 4月11日 松野頼三 三木は新党を考えている、党内主導権をとる、参院選の結果  
 4月中旬 大平正芳 80%は体制側  
 4月中旬 二階堂進 いざとなれば分党  
 4月下旬 宮澤喜一 自民が過半数を10も下回る可能性、参院選の結果をどう考えるか  
 5月23日 矢野絢也 江田死去について  
 5月25日 宮澤喜一 衆院で過半数を割ったら下野  
 5月30日 大平(正芳)‐竹入(義勝)会談 (連合の条件について) 「非公式」と注記あり
 5月31日 山本幸一 参院選后分党を考慮、日中関係、社市連、日朝関係  
 6月1日 大平正芳 野党と部分連合も 日本記者クラブでの講演
 6月1日 宮澤喜一 田中は輸銀使用が問題、日中平和友好条約、平和条約の内容  
 6月3日 大平(正芳) 参院選后も大きな変化はあるまい、野党との連合について  
 6月8日 小坂徳三郎 中国との経済協力、日中平和条約・福田のネライ、新自クは社会・共産と同じ、石田訪ソ、選挙の争点  
 6月8日 宮澤喜一 ソ連との善隣条約検討の対象、平和友好条約でニ島返還は考慮の対象  
 6月8日 大平正芳 田中は参院選后、自民は絶対多数でなくてもよい、日中平和友好条約、予算の取り扱い、覇権条項問題について  
 6月15日 小坂徳三郎 参院選の争点  
 6月16日 伊藤昌哉 自民が衆院で過半数を割った場合  
 7月1日 大平正芳 参院選の予測、内閣改造について、衆院解散について、党内反主流の動きについて、参院の過半数割れについて、補正予算・景気 山形市での懇談
 7月3日 (大平正芳) 参院選について、政局について、福田内閣について、 朝、懇談
 7月2日 三木武夫 参院選の見通しについて(参院選後の政局について、連立について) 徳島での記者会見
 7月7日 竹下登 参院選の見通し、“政変”は、選挙後の臨時国会、内閣改造、ポスト福田について、次の総選挙は、河野議長三選は、(大平幹事長の選挙支援について)、(政策研究会の立ち上げについて)、竹下派の結成は? 夜、山口市湯田温泉での懇談
 7月8日 記者のメモ (参院選の影響予測)  
 7月13日 大平(正芳) 参院議長問題、解散問題、田中角栄について、派閥研修会、社会党は鏡  
 7月13日 中曽根(康弘) (自由社会研究会について)  
 7月14日 山本幸 人事で安易な妥協はせぬ  
 7月15日 松野頼三 政権維持のための解散は反対、福田の次に大平は反対、官僚政治家に反対、野党連合について、総選挙后の展望、自民党政治のあり方 044501800に続きあり
 7月15日 松野頼三 ビューティ・ペアー、(自分の政治的位置づけについて)、参院選の結果 044501600に前半部分あり
 8月30日 矢野絢也 公民院内共闘協定の意味、保革連合を考慮、田英夫を中道連合の旗手に、社会党の委員長は石橋、福田‐大平の政権交代の約束は固い、保利は中国へ行きたがつている、公明党は次の総選挙で減る、公明党が政権をとったときの障書は伊勢まいりだ  
 9月6日 江崎(真澄) 政局、解散、党内情勢  
 9月7日 大平(正芳) (総裁選挙について、小沢辰男主催の勉強会出席について、鳩山外相について)、日中平和友好条約について、社会党の内紛について 夜、私邸
 9月13日 大平(正芳) 12日の福田・大平会談について、臨時国会について、(国鉄料金値上げについて)、日中条約について、都知事選について、京都知事選について  
 10月27日 大平(正芳) 会期延長問題、改造問題、中曽根問題、日中問題
 10月20日 大平(正芳) 内閣改造・党人事刷新、(園田官房長官の処遇)、国会の見通し 夜、観音寺市大平事務所での懇談
(昭和52年) 11月16日 栗原佑幸 内閣改造問題、福田・大平体制について、日中について  
  11月17日 大平(正芳) 内閣改造について、円高対策について
  11月19日 大平(正芳) 内閣改造問題、国会
  11月21日 竹下(登) 改造問題 夜、懇談
  11月21日 三原朝雄 改造問題
  11月21日 大平(正芳) 改造問題
昭和54年 1月(18日) 大平(正芳)・クリアンサクタイ首相第二回会談 対ベトナム援助の停止検討 断簡カ
(昭和54年) (1月19日) 大平正芳 予算編成、物価、労働人口の推測、個々の不況、対外経済協力、財政、ベトナム援助、ウオールストリート・ジャーナル、日本の経済移植の研究、フランク・フルター・アルゲイマイネ、(日中経済・海外経済協力について)、タイに信用供与 読売国際経済懇話会での講演、題目は「今年の課題と日本の方針」
昭和54年 1月22日 大平正芳 政府とプレス関係、(通常国会再開について)、統一地方選、東京サミット、(イラン問題について)、カンボジア情勢、田園都市構想、グラマン問題、日米経済関係 日本記者クラプでの講演記者会見
(昭和54年) 1月29日 田中六助 園田訪米問題  
  2月8日 二木会での懇談 (最近の経済問題)  
  2月8日 田中六助 (政治責任の取り方について)
  2月7日 大平正芳・鄧小平会談 インドシナ問題、朝鮮、(両国首脳の相互訪問について)  
昭和54年 2月17日 牛場(信彦)‐大平正芳会談 (米経済問題に対し関係閣僚会議の開催について)  
  2月23日 大平正芳 首相訪米問題、東京サミット、訪中問題、解散問題、物価問題、E2C凍結問題 官邸キャップとの懇談、オフレコ
(昭和54年) 2月26日 大平(正芳)・マンスフィールド会談 (訪米について、日米間の経済問題について)、中越問題  
昭和54年 2月26日 田中六助 解散、福田カムバックの動き、改造、グラマン事件、議長人事、大平の性格、民社党、公明党  
(昭和54年) 6月15日 大平正芳 グラマン・ダグラス事件、金大中事件、カーターとの日米首脳会議、石油、南北問題、財政再建、(一般消費税問題) 記者会見、メモには「75.6.15」とあり
昭和54年 6月21日 大平正芳 (東京サミットヘのスタンスについて)、成長問題、非関税しょうへき、ベトナム難民、(石油問題、ドル安について) 日本記者クラブでの記者会見
出典:目録番号044501200、044501400、044501600、044501800、0445010900
※年月日、発言者、主な内容については、原史料の表記に依らない場合は「()」を付した。また、順番は年によって再構成した。
表2 取材メモー覧(③首相期、逝去後)
月日 発言者 主な内容 備考
昭和55年 3月4日 大平(正芳) 参院選、物価、円対策 官邸キャップとの懇談
 3月17日 中曽根(康弘) (「自民党をよくする会」について)  
   安倍(晋太郎) (電力問題について)  
   近藤鉄雄 三福中会談  
   福田赳(夫) (「自民党をよくする会」について)
 3月18日 鈴木善幸 (三福中会談について)  
   二階堂(進) (三福中会談について)
 3月19日 伊東(正義) 三福中会談  
 3月24日 伊東(正義) 大福会談  
 4月2日 伊東(正義) (桜内幹事長の「死んでも言えぬ」発言について)
   森田一 (大平の政策課題について)
   小沢辰男 (非主流派のねらいについて)
 4月3日 福田(赳夫) (刷新連盟発足について、浜幸問題について)
   安倍(晋太郎) (刷新連盟発足について)
   河本(敏夫) (参院選についての所感)
 4月4日 三木(武夫) (刷新連盟発足について)
 4月10日 安倍(晋太郎) 国鉄運賃  
   大平(正芳) イラン、オリンピック、対米自動車問題、防衛 新聞協会編集委員会での講演
 4月25日 三塚(博) (福田の動向について)  
   安倍(晋太郎) (党内情勢について) 朝、宗教政治研究会での講演
 5月8日 鈴木善幸 (内閣不信任案について)
 5月13日 福田赳(夫) (大平内閣の政治運営について)
   大平正芳 (法案審議について、参院選について)  
   鈴木善幸 (内閣不信任案について)
   金丸信 (内閣不信任案について)
 5月14日 安倍晋太郎 (内閣不信任案について)
   福田赳夫 刷新連からの行動要請に対して
 5月15日 春日(一幸) (内閣不信任案について)
   桜内(義雄) 不信任
   加藤紘一 不信任案
   中川一郎 (内閣不信任案について)
   亀岡(高夫) (内閣不信任案について)
   森田一 (内閣不信任案について、サマーレビュー実施の閣議了解に就いて)
   鈴木善幸 (刷新連への対応について)
   中曽根(康弘) 不信任 夜、大阪講演から帰京後
 5月16日 金丸信 (石原・中尾の動向について、内閣不信任案について)
   宇野宗佑 (不信任案可決の顛末について)
   石原慎太郎 (新党問題について)
   安倍(晋太郎) (不信任案可決の顛末について)
   鈴木善幸 (不信任案可決の顛末について)
   鈴木善幸 (非主流派への処遇について) 深夜
 5月17日 森田(一) (大平の「かつての同志」発言について)
   三木(武夫) (不信任可決の原因について)
 5月18日 伊東(正義) (大平の自己評価について)  
   大平(正芳) (不信任可決の顛末について、総選挙での取り扱いについて) 番記者との懇談
 5月19日 田中六(助) (大平と田中の連絡について)
 5月20日 福田(赳夫) (衆参同日選挙にむけて)
   鈴木善幸 (再生協議会の動向について)
   小沢辰(男) (再生協議会の動向について)
   安倍(晋太郎) (財界の反応について、新党問題)
   河本(敏夫) (再生協議会への参加について)
 5月21日 桜内(義雄) 福田・三木への対応、選挙見通し、福田の見方  
 5月23日 福田(赳夫) (主流派への対応について)
   田中角(栄) (選挙見通しについて)
   安倍(晋太郎) (選挙に向けて)  
 5月26日 伊東(正義) (選挙見通しについて)  
 6月3日 福田赳夫 (不信任案可決についての釈明) 鳥取市での街頭演説
   安倍(晋太郎) (サミット出席問題、世代交代について)
   安倍(晋太郎) (刷新連への今後の対応について)
   安倍(晋太郎) (安倍派結成について) 夜、姫路
 6月4日 鈴木(善幸) (大平入院について、安倍晋太郎から総理への伝言にいて)
   桜内(義雄) (大平入院について)  
   河本(敏夫) (大平入院について)
   伊東(正義) (大平の病状について)
 6月5日 伊東(正義) (大平の様子について)、金丸発言  
   竹入(義勝) (社公民連携の可能性について) 夜、福岡
 6月6日 福田赳夫 (安倍の世代交代発言について)
   鈴木善幸 サンケイの心筋こうそく報道
   河本(敏夫) (サミット出席問題、世代交代問題) 佐世保
   田中六(助) (大平の病状について、サミット出席問題、世代交代問題)
 6月7日 福川(伸次) (サミット出席問題)
   田中六助 (大平の病状、サミット出席問題)
 6月8日 田中六(助) (サミット出席問題)
 6月9日 (鈴木)善幸 (政局の見通しについて、サミット出席問題)
   小沢(辰) (政局の見通しについて)
 6月10日 西村英(一) (大平の病状)
   田中六(助) (大平の様子について)
   安倍(晋太郎) (派閥解消問題について)
   竹下(登) (派閥解消問題について)
   中川(一郎) (首相の政治責任について)
   (鈴木)善幸 (大平退陣後の政局についての予測)
 6月11日 金丸(信) ニューリーダーの件
   小沢辰(男) 河本の動向について  
   首相周辺(木村貢) (大平の病状)  
   桜内(義雄) 総理の様子
   福田赳(夫) 伊東正義との会談について、暫定政権論について
   中曽根(康弘) 善幸の暫定政権論
   福川(伸次) (大平の病状、鈴木善幸の暫定政権論について)
 6月12日 田中角栄 (大平の逝去とそれに伴う影響について)
   桜内(義雄) (後継問題について)
   竹下(登) (大平の逝去とそれに伴う影響について)  
   二階堂(進) (宏池会情勢について)
   中川(一郎) (後継問題について)
   福田赳(夫) (後継問題について)
   三木(武夫) (大平の逝去とそれに伴う影響について)
   灘尾(弘吉) (後継問題について)
   西村(英一) (後継問題について)
   斉藤邦(吉) (後継問題について)
   渡辺美智雄 (後継問題について)
   宇野宗佑 (後継問題について)
   中曽根(康弘) (大平の逝去とそれに伴う影響について)
   伊東(正義) (ベネチアサミット参加について)
 6月13日 (鈴木)善幸 (後継問題について)  
   桜内(義雄) (後継問題について) 午後、本厚木駅への車中
   小沢辰(男) (後継問題について)
   中曽根(康弘) (後継問題について)
   福田赳(夫) (後継問題について) 夜、大阪
 6月16日 竹入(義勝) (選挙予測、後継問題について)  
   河本(敏夫) (後継問題について)
 6月17日 伊東(正義) (後継問題について、入院中の大平について)  
 6月18日 (鈴木)善幸 (後継問題について)
   三木(武夫) (後継問題について、派閥解消) 大阪
   桜内(義雄) (後継問題について) 松江
   安倍(晋太郎) (後継問題について) 夜、下関
   小沢(辰男) (田中派の動向について) 夜、姫路
 6月19日 伊東(正義) (後継問題、入院中の大平について)  
   (鈴木)善幸 (後継問題について) 夜、天童市
   中川(一郎) (後継問題について) 北海道、車中
 6月21日 (鈴木)善幸 (後継問題について) 伊東との会談後
 6月27日 小川平ニ (宏池会情勢について)
 6月30日 加藤紘一 (後継問題について)  
 7月6日 (鈴木善幸) (後継問題について)
 7月7日 中曽根(康弘) 心境は?
 7月8日 三木(武夫) (後継問題について)
   加藤六月 (幹事長人事について、福田派の動向について)
   中曽根(康弘) (鈴木政権発足について)
 7月9日 中曽根(康弘) (自民党葬の感想、人事について) 19時
   安倍(晋太郎) (人事について)
   (鈴木)善幸 (人事について) 夜、「斉藤」とあり
   桜内(義雄) (人事について) 夜、「完全オフレコ」・「山田」とあり
   林義郎 (鈴木政権の政策課題について)
 7月10日 田中六(助) (人事について)
   加藤六月 (人事について)
   福田(赳夫) 幹事長人事
   中曽根(康弘) (入閣の可能性について、今後の政策の重点について)
   中川(一郎) (人事について)
   (鈴木)善幸 (人事について)
   江崎(真澄) (人事について)
 7月11日 福田赳夫 (政局についての所感)
昭和56年 5月16日 二階堂(進) (外相辞任について、鈴木総理の指導力について)  
   桜内(義雄) (外相辞任について、鈴木総理の指導力について)  
   安倍(晋太郎) (外相辞任について、党内情勢について)  
   中曽根(康弘) (外相辞任について、党内情勢について)  
 5月18日 宮沢(喜一) (外相辞任について)  
   加藤六月 (党内情勢について)  
   古井(喜美) (鈴木総理の指導力について)  
 5月20日 福田赳夫 (鈴木総理の指導力について)  
   斉藤邦吉 (田中角栄の考えについて)  
   桜内(義雄) (鈴木への批判について)  
 5月25日 田中角栄 (鈴木政権について)  
 5月28日 伊東(正義) 週刊朝日の福田発言  
 6月1日 材津(昭吾) 2日夕の鈴木・伊東会談  
出典:目録番号045000100、045000200
※年月日、発言者、主な内容については、原史料の表記に依らない場合は「()」を付した。また、順番は年によって再構成した。

 

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