三田文学
水上瀧太郎時代(1926.4~1933.12)
網倉 勲
1926(大正15)年1月20日、「「三田文学」復活講演会」は慶應義塾内大ホールに於いて、700人の文学青年たちの熱気の中で開催された。編集委員・水上瀧太郎、久保田万太郎、井汲清治、南部修太郎、西脇順三郎、小島政二郎、水木京太、石井誠、横山重、編集担当・勝本清一郎が中心となって奔走した結果、休刊後僅か一年で不死鳥の如く復活したのである(第3次『三田文学』)。塾当局によって瀧太郎の主幹就任は拒まれ、編集委員制をとったのであった。復活講演会の席上久保田万太郎は物心両面にわたって牽引役を果たした水上瀧太郎を「我等の精神的主幹」と声明した。永井荷風時代の創刊は文科の機関誌として手厚い支援を受けたが、第3次の復活は塾当局と距離をおき(僅かな補助金があった)、文学青年たちの結集によって実現したことは特筆すべきことであった。瀧太郎は社業の多忙のため(勤務先明治生命保険の取締役に就任した)1933年12月をもって編集委員を辞退するが、彼の「精神的主幹の時代」は多くの新進作家が活き活きと活躍し、雑誌の資金的基盤を築いた正に「輝く『三田文学』の時代」であった。この間、編集担当は勝本、平松幹夫、和木清三郎と三代を数えるが、瀧太郎の存在と個性的な三人の編集担当者を得た事は復活『三田文学』にとってはこの上ない幸運であった。
復活号は澤木四方吉時代の歴史、哲学分野を切り離しているので、純文学関係だけで160頁余の頁数は文学雑誌としてはかなりの増頁であった。従来から重視された小説・戯曲・詩のジャンルを堅持し、一方で復活号から瀧太郎時代を特色付ける編集の基本方針がはっきりと打ち出された。新人の作品を積極的に取り上げることこそ復活の最大目標であった。復活講演会で瀧太郎は『三田文学』は「新進作家を生む為に存在する」と宣言したが、復活号は加宮貴一、久野豊彦、木村庄三郎を登場させ新進作家の活躍の場としての雑誌使命を内外に明示した。もはや荷風色(反自然主義、耽美派)は一掃されて三田派の結集を印象付けるものであった(荷風の寄稿は別誌用のものを転載したもの)。三田派の同人雑誌ではあるが、外部の新進作家を捲き込みつつ以後発展してゆく。また、海外文学の紹介は従来から特色の一つであるが、西脇、井汲などの論文や翻訳・評論の紹介、「海外文壇消息」欄など外国文学への目配りがなされている。表紙には新進画家の富澤有為男や鈴木信太郎などが登場するが、画家たちにとっても『三田文学』は画壇進出の場であった。変革は雑誌の資金集めにも現れ、前金購読者の勧誘、寄附金の依頼?広告の募集(デパート・化粧品・洋服店などに拡大)などを推進し、瀧太郎自身も「貝殻追放」や「六号雑記」で協力を要請した。平松によれば赤字から黒字に転換できたのは瀧太郎が「「三田文学」編集委員隠居の辞」(1933年12月号)を書いた頃だった。
第3次『三田文学』のもう一つの大きな特色は純文学路線の堅持である。復活号が出た大正末期から昭和初頭の文学界は、既成文学を打倒しようとする二つの流れ、即ちモダニズム文学とプロレタリア文学の流れと純文学と大衆文学の流れが輻輳した時期であった。商業的雑誌の創作欄は既成の作家で占められ、新人登場の余地は限られたものであった。こうした中で『三田文学』がこれらの流派には加担せず、「只管忠実におのれ一個の道を拓いて進む」(「人真似」)純文学の立場を貫徹しつつ新人にも場を提供した意義は大きい。
瀧太郎時代に活躍した執筆陣は三田派(荷風時代に登場)瀧太郎、万太郎、春夫を始め新三田派(澤木時代に登場)では南部修太郎、小島、井汲、演劇評論・三宅周太郎、劇作家・水木京太、詩の西脇順三郎、など多彩な顔ぶれが揃う。新々三田派(復活号以降)は、詩・蔵原伸二郎、加宮貴一、勝本清一郎、木村庄三郎、久野豊彦、倉島竹二郎、勝本英治、石坂洋次郎、平松幹夫、杉山平助、庄野誠一、丸岡明、今井達夫、劇作家・宇野信夫、南川潤、評論・矢崎弾など枚挙にいとまがない。紅野敏郎は「『三田文学』今昔」(『三田文学』1970年6月号)で「昭和初期から戦争下、水上さんが亡くなられるあの前後」が、創刊以降もっと面白い時期である」と結論付けている。冊子『三田文学創刊100年展図録』(2010年)が「「三田文学」の恩人、水上瀧太郎」として称賛する所以である。
■編集担当者について
▼水上瀧太郎 1887(明治20)年~1940(昭和15)年
東京生まれ、本名阿部章蔵。1912年慶應義塾大学理財科卒業、同年9月から4年間に亘り米英仏に留学。帰国後、直ちに明治生命保険に入社。サラリーマンと作家の「一身にして二生を経る」(福澤諭吉)生涯であった。処女作「山の手の子」が荷風の推挙で、創刊間もない『三田文学』に掲載された感動を「私のはなやかならぬ文筆生活も二十二年の久しきに及んだが「三田文学」はその揺籃であり、苗床であり、母の懐であつた」(「「三田文学」編輯委員隠居の辞」)と述懐している。熱意ある主幹の存在、新人に門戸を開いた雑誌、この二点は復活号以下を貫徹する瀧太郎の熱い思いであった。また純文学路線の堅持も瀧太郎の信念であった。関東大震災直後の「所感」(1923年10月号)で西洋近代の思想を無批判に受け入れ(未来派、表現派、ダダイズム、プロレタリアなど)、使い捨てる文壇の浮薄な風潮を厳しく論断した。作家自身の練磨と鞭撻と反省によって「今度こそは顧みて恥ぢない道を歩むべきである」と決意を披歴した。復活『三田文学』は瀧太郎の信念を具現化したものである。瀧太郎は毎号執筆を実践する一方、新人の発掘と育成に務め庄野誠一、丸岡明、杉山平助や義塾外でも藤原誠一、大江賢次、早川巳代治、井伏鱒二などを見出すとともに、それらの作品に適確な批評の筆を執った。毎月「水曜会」を開催し同人の懇親と切磋琢磨する場を提供した。『三田文学』は「水上瀧太郎追悼号」(1940年5月号)、「水上瀧太郎全集刊行記念」(1940年10月号)、「水上瀧太郎一周年記念特輯」(1941年4月号)によって哀悼の意を表した。
▼勝本清一郎 1899(明治32)年~1967(昭和42)年
東京生まれ。1923年慶應義塾大学美術史科卒業、1925年同大学院修了。『三田文学』復活に際して初代編集担当となり、1927年11月号まで1年7ヶ月の短期間ではあったが、勝本のもとに『三田文学』の方針は具体化され創意溢れる雑誌が実現した。倉島竹次郎、木村庄三郎、杉山平助など新人登用を積極的に進めた。早くも1926年7月号では「新進の創作・六篇」の特集を試みている。ここに収録された久野豊彦、富田正文・高橋宏、葛目彦一郎はそれぞれ「葡萄園」、「青同時代」、「橡」の同人であるが、『三田文学』は周辺の同人雑誌を巻き込んだことは注目すべきである。長篇小説の連載など紙面の工夫がなされる一方で同人雑誌にありがちな馴れ合いを排除し、掲載作品の質的向上を追求した。「勝本氏も気性の勝つた、他に屈しない人であるが、編集者の立場を顧みて、よく不愉快を忍んでくれた。もう厭だといひ出した事もあつて、それをなだめるのも私の仕事だつた」と瀧太郎は回顧している。初代編集担当が勝本であったことは幸先良いスタートであった。勝本自身は1921年評論「お夏狂乱」で『三田文学』でデビューした。編集担当後も小説や評論に健筆を振るったが、中でも瀧太郎の「大阪の宿」を批評した「随筆的心境」(1926年12月号)は瀧太郎文学の批判として注目される。
戦前はプロレタリア作家同盟の論客としても活躍したが、戦後は日本近代文学の実証研究に転じ『透谷全集』(全三巻、岩波書店)など成果をあげた。
▼平松幹夫 1903(明治36)年~1996(平成8)年
東京生まれ。1926年慶應義塾大学英文科卒、1928年同大学院修了。 勝本と急遽交代して1927年12月号から編集担当に就任したが、大病のため1929年3月号をもって退いた。義塾を卒業した直後で創作経験も少ない上に、雑誌編集は未経験であった。このため独自色を打ち出すまでには至らなかった。小品・随筆・評論、アンケート集約形式で多くの執筆者に出番を与え紙面を賑わしている。平松時代、「UP―TO―DATE」で杉山平助の時事批評を掲載したことは注目される。杉山は菊池寛の目にとまり、『文藝春秋』の匿名原稿や『朝日新聞』の「豆戦艦」に活躍の場を広げた。小説では新興芸術派の旗手・龍胆寺雄が瀧太郎の求めに応じて「A・子の帰京」(1928年9月号)で登場し、以後も作品を発表した。また、井伏鱒二は「鯉」(1928年2月号)、「たま虫を見る」(同年5月号)、「遅い訪問」(同年7月号)などの小説で文壇的にスタートしたことは注目される。
平松自身は「汗の味」(1926年12月号)でデビューするが以後、主に評論・随筆を数多く寄稿する。『水上瀧太郎全集』(岩波書店)の編集にあたった。『三田文学』と敬慕する瀧太郎に関する時々の随筆は、同時代の証言者としての役割をよく果たしている。慶應義塾大学教授の他、戦後は日本ペンクラブ理事、日本翻訳家協会会長、日豪学術文化センター所長を歴任した。