三田文学

和木清三郎時代(1934.1~1944.3)

尾崎名津子

 この時期の『三田文学』でまず特筆すべきは、新進の作家・評論家の積極的な登用である。それは和木自身が「しょっちゅう傍系でしたよ、「三田文学」は。だから、傍系でないようにするために〔いわゆる文壇に―尾崎注〕接近するような方法をとりましたね」(「座談会『三田文学』今昔」(『三田文学』1970年6月号))と証言したように、彼の意志に基づく編集方針であった。
 英文科出身の原民喜が「貂」(1936年8月号)で、また、文学部予科に在学中の柴田錬三郎が「十円紙幣」(1938年6月号)で登場し、評論では和木が久野豊彦から紹介された十返一や、帝大文科卒業直後の保田與重郎が共に1934年5月号に登場して以降、継続的に執筆した。保田は日本浪曼派のマニフェストとも言える評論「日本浪漫派(ママ)のために」(1935年2月号)を発表している。和田芳恵は「樋口一葉」を連載(1940年6月号~1941年8月号)、彼のライフワークとなる一葉研究の端緒を開いた。また、塾内からは山本健吉(本名・石橋貞吉)が初めてこの筆名で「文芸時評」を執筆(1940年4~6月号)、山本と同じ国文科出身の戸板康二は1935年5月号以降、歌舞伎を中心とした演劇論の発表を開始した。
 新進に限らずとも、高見順、上林暁や、既に『三田文学』に登場していた井伏鱒二や丹羽文雄ら早稲田出身の作家たちもこの時期に作品を発表している。和木の門戸開放路線によって、『三田文学』は追加注文に間に合わないと「編輯後記」に度々記されるほどの活況を呈することとなった。
 誌面構成上の特徴は、「六号雑記」の復活(1934年4月号~)、毎号一誌につき一頁を充てた主要雑誌の批評などがあるが、なにより多様な特輯を挙げられる。創作特輯はもとより、1937年から毎年8月号で組まれた随筆特輯は43年まで続いた。これは読者が避暑先で雑誌を気軽に読めるようにとの和木の配慮による。また、フランス文学、イギリス文学、美術といった学問分野でそれぞれ特輯号が出され、それらが研究者の寄稿で占められたことは、沢木四方吉時代に強まったアカデミックな傾向の再来だといえる。日米開戦以降は帰還作家報告、愛国詩、慰問文といった戦時色の濃厚な特輯が編まれた。

 追悼号が多く編まれたことも、和木時代の『三田文学』の特色であろう。南部修太郎(1936年8月号)、水上瀧太郎(1940年5月臨時増刊号)、馬場孤蝶(1940年9月号)と続き、特に水上瀧太郎追悼号の執筆者は136名に及び、1940年7月には再版もされている。『三田文学』復刊のために奔走し、復刊後は毎月のように寄稿するなど、『三田文学』を献身的に支えた「精神的主幹」水上の死を、和木たちはこうした形で悼んだ。
 また、1935年には1926年の『三田文学』復刊から十年を迎えた。1935年5月号は復活十周年記念と銘打たれ、小泉信三「三田文学と私」や宇野浩二「「三田文学」と私」が掲載されたほか、「三田文学復活十周年記念講演会」の開催が告知された。この会は時事新報後援のもと、水上瀧太郎、久保田万太郎、小島政二郎、西脇順三郎といった三田ゆかりの人物に加え、菊池寛、里見弴、佐藤春夫といった作家たちが登壇した。また、「復活十周年記念三田文学バラエティ」の開催も同時に告知された。これは映画、芝居、講談など諸芸能の上映・公演企画である。6月号には砧五郎「復活十周年記念「文藝講演会」見聞記」が掲載、7月号では小特集「三田文学祭の夜」が組まれ、二つのイベントの報告もつぶさになされた。これらに先立ち和木は「時事新報」1934年11月15日にて、「この雑誌が同人雑誌と呼ばれるのには多少不満がある」との談話を出しており、「文学の修練場」を超えた場の提供への意欲が強くあったことが窺える。

 この時期の作品で注目されるのは、石坂洋二郎「若い人」の完結と、岡本かの子「肉体の神曲」の連載である。
 「若い人」は1937年12月号で「続篇」が完結した。1937年中に改造社から単行本が刊行、また、豊田四郎監督により映画化され、双方ともヒットした。『三田文学』誌上では各企画の進捗状況や評判が逐一報告された。
 また、「若い人」は第一回三田文学賞(1936年1月号で発表)を受賞した。同賞制定の経緯に触れておきたい。まず、「三田文学十周年記念短篇小説懸賞」(以下「懸賞」)の募集が1935年2月号で告知された。すると、このことを激励する「塾員一匿名氏」から年500円ずつ十年間の寄附金の申し出があった(1935年3月号にて報告)。続く4月号では「懸賞」と別に「三田文学十周年記念賞金」(以下「賞金」)の告知がなされ、これが「賞金五百圓」、発表が「昭和十一年一月号」誌上とある。ゆえに、寄附金が三田文学賞制定の遠因になったと考えられる。結果的に、「懸賞」は一次選考までしか行われず、「賞金」が三田文学賞と名前を変えたのである。
 岡本かの子「肉体の神曲」(1937年1~12月号)は、彼女にとって『三田文学』誌上に発表された五作目の小説である。前年に「鶴は病みき」で話題を呼んだかの子だが、『三田文学』での小説発表は「売春婦リゼット」(1932年8月号)にまで遡れる。この号の「編輯後記」で和木は「新人」としてかの子を紹介した。小説家・かの子の発掘は、編集者・和木の手腕が発揮された結果にも見えるが、二人の私的な関係性の影響も考慮できる。それというのも、和木は岡本家に寄寓していた恒松安夫と慶應義塾の同級生であり、その縁で1918年頃にはかの子を知っていたのである。和木にとってかの子は姉のような存在だったという。「岡本かの子の死を悼む」(1939年4月号)で和木は「僕は余りかの子さんの近くにゐた。そして、かの子さんの好いところばかりを知り過ぎてゐた」と綴った。
 このように眺めてみると、和木清三郎の『三田文学』は新進の書き手の誕生を助ける一方で、先人の葬送を司りながら展開したといえるだろう。そして、昭和戦前・戦中期の文学状況にあって、命脈を保ち、豊かな文学的成果をもたらしたのである。

■編集担当者について
▼和木清三郎 1896(明治29)年~1970(昭和45)年
 広島生まれ。本名は脇恩三。1923年3月、慶應義塾大学文学部国文科卒業の直前に、主任教授だった与謝野寛の推薦で改造社に就職、『改造』編集部に入った。『三田文学』の編集には1929年4月号から参加し、1934年1月号より編集主幹の任に当たった。それ以前にも同誌上で「江頭校長の辞職」(1921年10月号)をはじめとして創作を発表していたが、主幹在職期間には「早慶野球快勝記」(1935年12月号)、「リーグ戦見聞記」(1941年7月号)といった大学野球に関するエッセイを多く残した。
 水上瀧太郎に全幅の信頼を寄せ、編集面でも彼に伺い立てをしていた和木にとって、1940年3月の瀧太郎の死は大きな痛手となったが、瀧太郎関連の講演会を主催し、一周忌記念特輯(1941年4月号)を組み、その死を悼んだ。水上に続き和木を励ましたのは小泉信三であり、二人の親交は小泉の逝去の時まで続いた。
 1941年10月に和木も関わるかたちで創設された三田文学出版部は、経済的統制の進む出版業界の情勢と相俟って雑誌の運営を圧迫した。そして、事業整備を機として、『三田文学』1944年3月号をもって和木は15年にわたる『三田文学』の編集生活に幕を下ろすこととなった。敗戦を南京で迎えた和木は1946年5月に帰国したのち、小泉信三の協力を得て『新文明』(1951年9月号~1970年6月号)を発行した。水上瀧太郎、小泉信三という二人の先達の後ろ盾を得つつ、雑誌編集者としての生涯を歩んだのである。

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