三田文学

戦時末期(1944.4~10)

五味渕典嗣

 当時の情報局による指導・監督のもと、《出版新体制》下の出版業者を束ねる組織として1940年12月に設立された日本出版文化協会は、1943年11月、統制団体「日本出版会」として再編され、法的な根拠にもとづく強力な権限を有することになった。アジア・太平洋各地域での戦局の悪化を受け、決戦体制構築のための「出版報国」を一義的な目標に掲げた日本出版会の最初の大仕事は、戦略物資としての紙をより〈有効に〉活用するための、出版事業者と雑誌メディアの整理・統合であった。
 用紙統制が本格化した1941年以降、『三田文学』のページ数は、他の雑誌同様に減少の一途をたどっていた。1943年に入ると各号100ページを割り込み、1943年12月号・1944年1月号では30ページ台にまで薄くなった。そんな状態でも、どうにか『三田文学』の刊行は続けられた。1943年末から開始された戦時末期の雑誌メディアの統廃合の際にも『三田文学』は、ライバル誌『早稲田文学』とともに、存置される文芸文学雑誌の一つとして、辛うじて生き延びたのだった。
 この決定後、1944年3月号をもって、長く『三田文学』の顔として活躍した編集主任・和木清三郎は退任、久保田万太郎、太田咲太郎、片山修三、庄野誠一、柴田錬三郎、富田正文、戸板香實、長尾雄、丸岡明、南川潤の慶應義塾関係者・『三田文学』出身作家10名が編集委員となり、発行人の名義も西脇順三郎から富田正文に交代、養徳社を新たな発行所として、1944年11月号まで刊行が続けられた。また、実際に発売されることはなかったが、1944年12月号~1945年3月号の4冊については、当該号の目次を掲げた新聞広告の存在が確認されている。『三田文学』は、日本帝国の敗戦直前まで編集作業を続けていた数少ない文学雑誌の一つだったのである。

 ただし、こうした編集体制の変更が、『三田文学』の誌面に小さくない影を落としたことは確実である。そもそも日本出版会による雑誌の整理は、用紙の割り当てを受けていた他の雑誌を「買収」「統合」することを条件としていた。生き残りがかかった『三田文学』が、どの雑誌を「統合」したかは正確には分かっていない。しかし、当時の編集委員だった庄野誠一は、「同じ塾内で刊行されていた三田評論その他の雑誌を統合した」と回想している(「戦時中の三田文学」『三田文学』1960年3月号)。とすれば、戦時末期の『三田文学』は、実質的に慶應義塾の雑誌になっていたことになる。
 そう考えると、和木退任後の新体制下での誌面にほぼ毎号登場する小泉信三をはじめ、高橋誠一郎、峯村光郎、後藤末雄ら、慶應義塾の教員によるエッセイや学術的文章が多く掲げられていることが説明できる。事実、1944年4月10日付けの『三田新聞』には、和木時代の『三田文学』について、慶應義塾内部から「性格について疑点がさしはさまれていた」こと、当時文学部の教員だった井汲清治を中心に、三田文学会の新たな組織に向けた準備が進められるだろうと伝える記事が掲げられている。柴田錬三郎は、1944年8月号の編集後記の中で、上林暁から「数少ない文学雑誌だから立派に育てて欲しい」と激励されたことを紹介しているが、そんな言葉に込められた思いとは裏腹に、同じ1944年8月号は、『文学報国』の匿名座談会(1944.11.20)で「何だか文学雑誌ではないようですね。三田随筆とかいうものにしたらどうでしょうかね。相当えらい人が随筆を書いて居るのです」と、文芸雑誌としての「編集方針」に対する疑問が提出されるほど、いわゆる「創作」は圧迫されてしまっていた。

 それでも、『三田文学』での文学の灯火が完全に消えたわけではなかった。確かに、視点人物の女性を中心とした人間関係の微細な変化を描く作品を多く書いた阿部光子や、「上海もの」を得意とした池田みち子ら、和木時代の後期を彩った女性作家たちは誌面から姿を消している。しかし、石坂洋次郎はフィリピンを舞台に、民族運動家の娘とヘミングウェイ好きの作家と元ジャズ・シンガーらのフィリピン人と日本人軍人と嘱託の文学者から成る奇妙な宣伝部隊の活動を描き(「湖水」1944年6・7月号)、原民喜は、現実感覚を失って、妄想めいた連想がとめどなく続いていくありようを切々と訴える「四十近い」母親の「手紙」を、あっけらかんと掲げてしまう(「手紙」1944年8月号)。編集委員の筆頭として名前の挙がった久保田万太郎は、関東大震災後、ささやかながら銀座の復興に立ち上がろうとした小料理屋の店主と、そこに集う人々を共感を込めて活写した水上瀧太郎の「銀座復興」を戯曲にリライトし、戦時末期に最後に刊行された号(1944年10・11月号)で完結させた。
 万太郎の「銀座復興」は、敗戦直後の1945年10月、尾上菊五郎一座が帝国劇場で上演し、おそらくは1944年の万太郎が願ったように、戦後の銀座の復興を祈念し、改めて誓い直す作品となった。また、刊行されなかった幻の『三田文学』の広告には、北原武夫「マタイ伝」、山本健吉「美しき鎮魂歌」など、戦後第一次の『三田文学』復活を支えた作品の名前が挙げられている。列島の各都市が灰燼に帰し、アジアと日本の多くの生命と文化が失われた戦争の中で、三田の文学の灯火は消えることなく、次代に確かに手渡されていたのである。

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