オンライン版 楠田實資料(佐藤栄作官邸文書)

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目 次
第Ⅰ節 「楠田實資料」の背景と全体像 和田 純(神田外語大学教授)
第Ⅱ節 Sオペレーションと総理官邸 村井 哲也(明治大学兼任講師)
第Ⅲ節 国内政策―国会答弁、記者会見など国民への働きかけを含めて 村井 良太(駒澤大学教授)
第Ⅳ節 沖縄返還・日米関係 中島 琢磨(龍谷大学准教授)
第Ⅴ節 日中関係 井上 正也(成蹊大学准教授)

第Ⅰ節 「楠田實資料」の背景と全体像

和田 純(神田外語大学教授)

1. 楠田實(1924-2003)の人物像

 1964年11月9日から1972年7月6日までの7年8か月、延べ2,797日にわたる戦後史上最長の政権となった佐藤栄作内閣。その総理秘書官を務めたのが楠田實である。
 楠田は1924年に台湾で生まれて鹿児島に引き揚げるが、小学生の時に母を亡くし、旧制中学校への進学を断念して実世界に出る。その境遇からの脱出を目指して入学したのが陸軍少年戦車兵学校であった。2年の教育訓練を受けたのち、1943年に陸軍兵長として満州の戦車連隊に配属となった楠田は、関東軍の大移動とともに「中支」に移動するが、湖南省で米軍戦闘機の機銃掃射を受けて重傷を負い、左小指を失う。しかし内地送還を望まず、原隊に復帰して陸軍軍曹として敗戦を迎える。
 戦傷にもかかわらず「ためらうことなく戦友達と再会し、共に戦う方を選んだ」ことを「理屈抜きに自分の選択肢は正しかったと、今でも思っている」(『但盡凡心』私家版、1999年)と後に自叙伝に記すが、この従軍経験は大義、使命、戦友、自己献身が重なりあう楠田の原点となるものだといってよい。実弾の飛び交う最前線に立って、生死苦楽を共にする仲間を率い、戦略戦術的な判断をしながら国家という大義のために献身する生き方は、「戦場」を「政治」に置き換えても、やがて激動に身をさらす佐藤政権時代、さらに晩年まで、「国士」的献身を貫く楠田の姿となった。
 中国で捕虜生活を送ったのち、楠田は1946年5月に博多から復員する。その楠田を駆り立てたのが「何としても人並みの教育だけは受けたい」(『但盡凡心』)という向学心であった。間をおかずに、楠田は働きながら工業高校夜間部へ進み、次いで早稲田大学専門部商科へ、そして新制大学への移行に伴って早稲田大学商学部へと進む。
 その早稲田大学時代に特筆されるのは、既存の学生組織を一本化して「商学部学生会」を結成し、初代委員長に就任したことである。既存の商学部自治会は左寄りであったが、学生会はイデオロギー闘争はやらず、現実路線に徹した。読書室の充実、学生ラウンジの自力開設など、学生の実利を優先させる活動を展開したのだ。ここにはすでに、思想的には保守寄りでありながら、発想は自由で現実的な成果を優先し、衆議をまとめて組織を機能させる楠田の才覚を見て取ることができる。
 1952年、早稲田大学を卒業した楠田は、産経新聞に入り政治部記者となる。54年から官邸詰めとなって、56年に佐藤派の担当となり、57年に官邸キャップ、62年に政治部次長(デスク)となるが、63年12月からは佐藤政権の実現をめざして水面下の忍者部隊「Sオペレーション」を始める。愛知揆一(のちに西村栄一)をキャップとして、実質は楠田が仕切り、ジャーナリストや若手官僚をメンバーとした活動は、64年7月に佐藤の政権構想「明日へのたたかい」を生み出し、同年11月の佐藤内閣の成立後も献策を続けていく。
 そして67年3月1日、楠田は職を辞し、乞われて佐藤内閣の総理秘書官に就任する。大津正に代わる政務秘書官の登場であった。以来、佐藤退陣までの5年4か月にわたって、楠田は総理の首席秘書官を務めることになった。

2. 「楠田實資料」の背景

 本資料は、その楠田が2003年の逝去まで手元に残した数多の資料のうち、Sオペの時代から佐藤政権退陣までの文書を整理して、デジタル化し公開するものである。文書総数は約4,500件、約9万2千ページに及ぶ膨大なもので、稼働中の総理官邸で現用されていた文書原本がそのまま残されていたという意味で「官邸文書」と呼ぶにふさわしく、また質・量から言って「事実上の佐藤栄作文書」と呼んでよい第一級の資料群である。
 楠田は、秘書官在任中から、手元に回ってきた重要資料を集積し、また、自らが関わった取材、起草、献策の主要記録を蓄積してきた。これはジャーナリスト出身の楠田の「習性」とも言えるが、もとより日記をつけ、あらゆる資料を廃棄しないという楠田の性格にもよるところが大きい(実際、入場券から年賀状まで膨大な私的記録が残されている)。しかし、それ以上に大きな動機となっていたのは、後に「佐藤政権詳史」「沖縄返還正史」を書きたいと念願した楠田自身の想いに違いない。和田純編・五百旗頭真解題『楠田實日記』(中央公論新社、2001年)の1972年6月23日の項に、佐藤退陣を控えて「自分の資料の整理に入る。(略)なにしろ、いろいろな分野での資料の量が多い。(略)将来ものを書くについても必要なものが多いから、(略)それぞれ表題をつけ、分類する。少なくとも数日はかかるだろう」とあるように、楠田は意識して手元に資料を集積したのである。手元に何も残さなかったといわれる佐藤総理とは対照的で、楠田が残したことで「佐藤栄作官邸文書」は命をつなぐこととなった。
 秘書官退任後の楠田は、社会工学研究所理事長に就任するが、衆議院選挙に出馬して落選したのを契機に、1977年に「楠田政治経済研究所」(通称「楠田事務所」)を開設し、生涯にわたって政治に関与し続けていくことになる。その間、楠田は『首席秘書官-佐藤総理との10年間』(文藝春秋、1975年)や『佐藤政権・二七九七日』上下(行政問題研究所、1983年)などを上梓するが、本資料はその裏付けとなりながら、欠けることなく楠田事務所に保管され続けてきた。
 2002年に楠田事務所が閉鎖されると、本資料は東京世田谷の楠田自宅に移され、地下の書斎・書庫と2階の書庫に分散収納されることとなる。しかし翌2003年に楠田が逝去したため、資料はそのまま自宅に留め置かれた。
 編者(和田純)が楠田ご長女のかおる氏(1955年~2008年)から依頼を受け、すべての資料を譲り受けたのは、楠田の逝去から3か月後の2003年末である。編者は、楠田が国際交流基金の役員を兼職する中で、1980年代半ばから楠田の知遇を得、竹下登政権、幻となった安倍晋太郎政権、小渕恵三政権などに関り、また、楠田のもとで『但盡凡心』や『楠田實日記』の編纂に携わったことから、かおる氏とも懇意であったため、楠田の遺志を託されることになった。

3. 「楠田實資料」の構造

 楠田の自宅から運び出された資料は段ボール箱で102箱に及ぶ。そのうちの約60箱が佐藤政権関連のものである。
 資料の形態は ①「簿冊」(先に引用した日記にあるように、官邸退出時にまとめられたもので、白ボール紙でくるんでタコ糸綴じした簡易なもの。大テーマ別)、②「紙ファイル」(小テーマ別に市販ファイルに綴じられたもの)、③「冊子」(省庁で簡易印刷製本された想定問答集や分析資料など)、④「単独文書」(順不同で未分類のまま混在する膨大な文書群で、省庁だけでなく、政治家、文化人、ジャーナリスト等とのやり取りなどを含む)、⑤「日誌・日記・手帳・メモ」(市販の小型ノート・大学ノート・市販手帳・ホッチキス留めメモ)などに大別される。
 これらは、楠田の執務上の必要に応じて集積されていったものとみられ、簿冊やファイル内ではある程度のまとまりは見せているが、時系列で綴じられているとは限らず、文書の重複がある一方で単独文書に重要なものが残されたままであったり、また、同一テーマに属すべき文書が資料群をまたがって広範に散在している例も少なくない。例えば「沖縄返還」の関連文書に限っても、タイトルに「沖縄」という文字を含む簿冊や紙ファイルにまとまって綴じられているのは当然だが、他のほぼすべての資料群にも重要文書が散在しており、演説での言及や国会答弁まで含めれば、全体像を把握するためには全文書を通読せざるを得ない構造となっている。
 これは、職務上で蓄積された資料が最後まで実用し続けられ、暫定的にでも分類されてまとめられたのは政権退陣の間際であったためである。換言すれば、本資料はほぼ「現用」の姿のまま残されたもので、整理されたのはごく一部にとどまり、「索引」は楠田本人の記憶の中にのみ存在したことを物語っている。従って、錯綜する本資料を使いこなすことは容易でないが、政治が何を課題とし、どのような思考回路を経て何を優先し、紆余曲折の末に何を施策としたのかをたどるうえでは、本資料の原型の構造はきわめて重要だと言ってよい。かかる観点から、資料利用には不自由さを伴うものの、デジタル化にあたっても資料原型の構造は崩すことなく、楠田の手による分類や綴じのままとした。ただし、すでに50年以上を経過して劣化が始まった資料の保護のため、鉛筆でページ番号を付したうえで、簡易製本は解体し、ホチキス等は外している。
 資料全体の索引としては「件名目録」を用意した。その分類基準や項目の詳細は「凡例」をご覧いただきたいが、この「件名目録」を再編したデータベース上では、自由語による目録の横断検索が可能である。検索にあたっては、簡単な短めの単語を様々に駆使することをお勧めしたい。なぜなら、当時の案件名や呼称は一定しておらず、例えば「中国」関連を考えただけでも、「台湾」「国府」「中華民国」「日華」「中共」「中華人民共和国」「日中」などと、立場と状況が異なれば使われている用語は異なるからである。また、件名のない文書も多いので、時期を特定して文書を寄せ集めたり、件名も時期も不明の文書を丹念に画像で内容確認することも不可欠である。

4. 「楠田實資料」の概要

 本資料の概要は次の通りである。楠田が一連の資料として残したものについては、公文書・私文書の区別を問わず、その歴史的な重要性に鑑みてすべてをそのまま収録した。ただし、私的な書簡や録音テープなど個人情報に関わるものは除外した。

(1)「Sオペレーション」とブレーン集団

 先述したように、佐藤政権実現のために、楠田を中心に水面下で活動した忍者部隊の活動が「Sオペ」である。佐藤の「S」を冠した活動は1963年12月に始まり、佐藤政権が実現した後も活動は継続し、楠田の秘書官就任後は水面下と水面上の両者からなるブレーン集団へと発展していった。佐藤政権がブレーン政治の嚆矢と言われる所以で、ヴィジョンを磨き、政権を生み出し、政策を立案し、政治を創り出していったジャーナリスト、官僚、知識人らの献策の軌跡をたどることが可能である。政権が長期に継続するには内在的なブレーンを必須としたこと、その要として秘書官が重要な機能を果たしたことなどを跡づけ得る重要かつ稀有な資料群だと言ってよい。
 なお、Sオペの最有力メンバーで『佐藤内閣回想』(中央公論社、1987年)を著した千田恒が所蔵していた資料も、後年に楠田に譲渡されていたので、現存するSオペ関連資料はここに収録したものでほぼすべてと考えられる。

(2)演説・答弁

 1972年7月2日の『楠田實日記』には「(略)静かに過去を振りかえる。失敗も多かったが、よい仕事をしたという自負もある。なかでも21回に及ぶ施政方針演説、所信表明演説の起草責任を果たしたことは、表に出ないことだけに、これからの自分の心の支えになるだろう」とある。間違いなく、楠田が心血を注ぎ自負してきたのは、すべての国会演説と主要演説を自ら書き下ろし、すべての国会答弁の最終とりまとめを担ったことであった。
 この資料群には、要となる総理発言の構想を練り、推敲を重ねる過程の膨大なメモや草稿と、佐藤総理が最終的に使用した完成原本が残され、楠田の苦闘の跡とともに、様々な人々の献策や総理自身による加筆の跡を追うことができる。例えば「核抜き本土並み」を打ち出す際の確執など、政治の機微をたどる上で基本となる資料群で、官庁が用意した多量の想定問答集とあわせて、今日以上に国会論戦が重視され、「言力」がインパクトをもった時代の政治を象徴するものである。

(3)日記・メモ・手帳・執務日誌・日程簿

 官邸秘書室で管理していた総理の日程簿に加えて、楠田自身が残した手帳や執務日誌、大量のメモが一つの資料群となっている。手帳・メモは産経新聞記者時代(池田政権期)から継続しており、秘書官時代の執務日誌とともに取材、面会、会合などの記録が生々しい。『楠田實日記』に未収録の楠田日記の一部も含めた。

(4)外交資料

 外交資料の中心はなんと言っても沖縄返還関連である。外務省と並行して官邸自らも返還交渉に深く関与した経緯が読み取れる資料群で、沖縄返還交渉を総体として把握し、冷戦下における安全保障を究明する上で不可欠な資料群である。加えて、ベトナム戦争、NPT、「非核三原則」、日米安保延長、繊維交渉といった山積する課題や、「ニクソン・ショック」となった米中国交回復、それに次ぐ日中国交正常化の難題などテーマは多岐にわたり、未公開文書、私的メモ、意見具申、草稿といった種々の資料が錯綜する激動期の記録である。各国要人と総理との会談録、米国大統領と総理の間で交わされた親書の原本、外務省の情勢分析資料、懇談会や有識者の見解なども幅広く含まれ、最大の資料群を形成している。

(5)外遊資料

 佐藤総理は2回の訪韓、訪台、2次にわたる東南アジア訪問に加えて、沖縄返還交渉のために訪米を重ね、ジョンソン大統領と2回、ニクソン大統領と3回の首脳会談を行った。また国連25周年の場でも演説し、さらに総理退任後にもニクソン再選就任式とジョンソン葬儀のために訪米している。こうした延べ11回にわたる外遊ごとに事前準備資料、発言要領、会談録、接遇記録、報道記録などがまとめて残されており、(4)を補完している。

(6)内政資料

 佐藤政権は、内政では、高度成長の歪みを乗り越えるべく「社会開発」を標榜した。住宅、物価、公害といった国民に直結する課題に取り組み、為替自由化という荒波にも遭遇したが、こうした内政・経済政策に関わる資料も多く残され、社会問題の解決を政府が主導する流れの定着が読み取れる。
 また、大学紛争からハイジャック事件まで、世界を揺さぶった動乱にも直面しており、日本も世界史上の転換期にあったことを想起させてくれる。
 のみならず、2度の総選挙と都知事選挙(革新都知事の誕生)、地方での「一日内閣」の毎年開催、全テレビ局が回り持ちした定例番組「総理と語る」の制作記録など、国民への働きかけに腐心した軌跡も残されている。マスコミ出身の楠田に与えられた任務の一つが「マスコミ対策」であったこともあり、「新聞記者は出ていけ」の一言で有名になった退任会見も含めて、政権とメディアの関わりも興味深い。

(7)「ノーベル平和賞」受賞関連

 佐藤は総理退任後の1974年にノーベル平和賞を受賞する。その際の受賞記念講演を起草したのも楠田であった。佐藤内閣時代からのブレーンであった梅棹忠夫、京極純一といった知識人と共同起草した過程や、佐藤との摺り合わせで「非核三原則」への言及がトーンダウンした経緯などをたどることができる。

(8)楠田執筆の刊行物

 楠田の人物像を知る上で欠かせない私家版自叙伝『但盡凡心』、楠田が後年に佐藤内閣の思い出や位置づけを記した非商業出版の寄稿や講演録なども収録した。

5. 「楠田實資料」の特徴

 本資料の詳細や注目点、テーマ別の読み解きなどについては「第Ⅱ節~第Ⅴ節」を参照いただきたいが、本資料の特徴は、佐藤政権の施政の記録というレベルにとどまらず、政権に関与した様々な人々の葛藤、確執、野心、情熱が織りなす「政治の人間模様」がそのまま残されているところにある。そこには、公人による表舞台での政治や権力行使だけでなく、裏舞台や水面下で政治に献身した人々の呻吟の記録までもが包摂されているのだ。
 記録を残した主な顔ぶれは、政治家(愛知揆一、保利茂、木村俊夫、宮沢喜一など)、総理秘書官(特に外務省出向の本野盛幸と小杉照夫)、官僚(外務省国際資料部の村田良平、岡崎久彦、加藤吉彌、北米課長の千葉一夫、経済企画庁の宮崎勇や香西泰など)、ジャーナリスト(Sオペのメンバーでもある千田恒など)、知識人(高坂正堯、永井陽之助、江藤淳、若泉敬、坂本二郎、梅棹忠夫、京極純一、中嶋嶺雄、山崎正和など)、思想家(安岡正篤など)と多彩だ。こうした人々は影のブレーンとして政治に関与し、自らの立場をリスクにさらしながらも演説、答弁、交渉、戦略や新機軸の打ち出しなどに大きな役割を果たした。
 したがって、「楠田實資料」を読み解くにあたっては、こうした多様な人々による多様な献策の跡付けがきわめて重要となる。特定の文書に着目するだけでなく、資料総体への広範な目配りが必須ということである。その手掛かりとなるのは、まず膨大な量の草稿や推敲の記録だ。こうした思索や献策の経緯を示す資料が散逸せずに残されていること自体が稀有と言ってよく、ほかに意見具申や提言を含む私文書、生々しいメモや諸資料も多い。
 もちろん、「楠田實資料」には多くの公文書も含まれており、これらもきわめて重要である。起案元は省庁、局、課など多岐にわたり、多くは「極秘」や「秘」扱いで、未公開のものも多い。さらに官邸で独自に起案した文書もあり、全体量は膨大である。
 そうした中で忘れてならないのは、「未定稿」「案」と書かれた政策検討資料だろう。通常ならば重要度は低いと見られがちだが、実は逆で、「未定稿」「案」とは、未だ合意形成に至らず越権の批判も招きかねないような政策提言をし、根回しをするための文書であって、そこには先駆けた分析や戦略が語られていることが多い。「未定」「案」と添書きすることで、臆することなく私見や大胆な提案を具申し、アドバルーンを揚げて政治の風向きを読む手法は、今日でも有効だが、能動的な「政治的関与」の記録として重要である。
 加えて、和紙にタイプ印字された無記名の文書も見落とせない。これは、総理への最終的な意見具申や内々に総理の裁可を求める際に「出所不明」の体裁をとって用意されたものが多く、そこには機微にわたる政治的な最終決断を阿吽の呼吸で求めんとする意志が伺える。
 「楠田實資料」には、こうした「未定稿」「案」「出所不明」といった文書や内外の人々の献策の経緯までもが残されており、官邸の要にいた秘書官が集積した資料群でなければ目にすることができない「政治の内部構造」が凝縮されている。しかも、その随所に佐藤総理自身による加筆がみられ、「政治のダイナミズム」を考察する上で出色の資料群となっている。

6. 「楠田實資料」のはらむ意味

 政権が機能し、政治が大きな力を発揮するには、「総理官邸」が核となることに疑いはない。しかし、官邸という中枢の記録が一つのまとまった資料群として公開されたことはなく、その実態は不明なままであった(この点は日本の文書公開の議論からも抜け落ちており、米国の大統領ライブラリーの存在とは対照的である)。その意味では、本資料の公開は先例のないもので、官邸の機能と政治のダイナミズムを究明する上できわめて貴重なものだと言ってよい。
 また当然、佐藤政権そのものを研究する上でも、「事実上の佐藤栄作文書」である本資料の活用は不可欠である。Sオペといった政権を生み出す過程から、政権の命運を賭けた沖縄返還、不発に終わった日中国交正常化、有能な官僚や若手学者を起用したブレーン政治など、追うべきテーマは多彩である。のみならず、経済成長期から成熟期に入ろうとする中での新たな共通価値の模索、左右対立の激動で問われた国民統合の課題、「平和国家日本」の基本要素が出揃った「戦後レジーム」の集大成(「第二の戦後」の始まり)など、鳥瞰的な切り口も豊富である。
 のみならず、政治における水面上と水面下をつなぎ、自らは表に立たないまま国家のために献身した楠田の姿に、政治の本質を見出すことも可能だろう。楠田はその原動力を「匿名の情熱」と呼んだ。あるべき政治の要諦として、今も待望されているものの一つに違いない。
 政治というものの深層を探り、政権というものを当事者側から究明し、世界史の中に日本を跡付けうるものとして、本資料はまさに類例のない「宝庫」である。

<補遺>

 様々なものが混在する「楠田實資料」の中から佐藤政権時代のものを選別し、整理分類して「件名目録」を編む作業は長期にわたるもので、編者(和田純)が単独で行った。したがって、その誤りや抜けなどの責はすべて編者が負うべきものである。
 本資料のデジタル刊行は、科学研究費の基盤研究(C)JP25380167「民主政治下での長期政権のメカニズムと政策形成―楠田資料を用いた佐藤政権の歴史分析」(2013~2015年)による共同研究の成果の一部である。研究メンバーは村井良太(研究代表・駒澤大学)、井上正也(成蹊大学)、中島琢磨(龍谷大学)、宮川徹志(NHKチーフ・ディレクター)、村井哲也(明治大学)、和田純(神田外語大学)の計6名で、研究職の5名は個別研究に加えて本デジタル版の「解題」を執筆し、宮川はNHKスペシャル「総理秘書官が見た沖縄返還~発掘資料が語る内幕~」(2015年5月9日放映)およびBS1スペシャル「完全版 総理秘書官が見た沖縄返還~発掘資料が語る内幕~」(2015年6月21日放映)を制作した。
 なお、デジタル刊行にあたっては、楠田ご長男の和男氏から全面的なご賛同をいただき、丸善雄松堂の出野直子氏をはじめ、学術情報ソリューション事業部の吉本旅人、松本詩織、秋田収の各氏のご尽力を得た。記して感謝申し上げる。

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第Ⅱ節 Sオペレーションと総理官邸

村井 哲也(明治大学兼任講師)

1. Sオペレーション資料の意義

 楠田實は、佐藤栄作のブレーン集団として知られるSオペレーション(以後、Sオペ)を中心となって築きあげ、やがて首席秘書官として、これを戦後最長政権の拠点となった総理官邸と有機的に結合させていった。この第Ⅱ節は、楠田とSオペの軌跡とその仕組みを本資料とともに解説していく。今回の公開で、その全体像を体系的に浮き彫りにすることが可能となった。その意義は、次のように大きい。
 第1に、ブレーン政治の有益なケース・スタディとなることである。Sオペは、佐藤のリーダーシップに欠かせない、本格的なブレーン政治の嚆矢であった。その中核的な資料はまずE「Sオペレーション」だが、K「内政」、Y「楠田記録」にも、それに匹敵する濃密な内容が随所に含まれている。本資料は、幅広い領域でリーダーシップ論やブレーン論に大きな刺激を与えるであろう。
 第2に、そのSオペが融合した総理官邸の文書としての側面である。公文書の公開が遅れがちな中、総理官邸の具体的なプロセスがここまで記録されていることは珍しい。楠田の首席秘書官の就任後に、その輪郭がさらに浮かび上がる様は、A「総理演説・挨拶」、B「総理国会答弁」、C「国会想定問答」、M「総理日程」から窺える。本資料により、戦後における国家中枢メカニズムを大胆に解明することが期待される。
 第3に、これら資料が集積され、戦後政治史の理解に重要な示唆が滲み出ていることである。近年、田中角栄ブームや保守再定義の論争のように、自民党を中心とした戦後政治や保守主義とは何だったのか、改めて関心が高まっている。これらの問いかけに、佐藤政権やSオペが果たした歴史的な役割は注目に値する。本資料は、戦後政治史のみならず、現在の日本が直面している課題にも貴重な道標となる可能性を秘めている。
 以上を、楠田らによる3つの時期区分に沿って時系列に解説していく。
 第1期は、楠田がSオペを立ち上げ、佐藤の忍者部隊として池田勇人との自民党総裁選に臨むまでである(1963年12月-1964年11月)。初期の構想と異なる事態が続出し、様々な試行錯誤を繰り返していったのがこの時期の特徴である。
 第2期は、総裁選の敗北後に次を想定してSオペが継続され、やがて発足した佐藤政権で信頼を決定的とし、これを水面下で支えていく過程である(1964年11月-1967年2月)。注目すべきは、総理官邸を拠点としてSオペを佐藤政権の推進力にしていく試みである。
 第3期は、楠田が首席秘書官として正面から総理官邸に入り、戦後最長政権の幕を閉じるまでである(1967年3月-1972年7月)。Sオペの蓄積が一気に開花していく様が窺えるが、しかし最後には、拠点である総理官邸は空中分解していく。

2. 第1期:Sオペレーションの創設

 まずSオペの前史として、産経記者時代から始まるメモは見逃せない。楠田がブレーン集団を形成して国家や政治に「匿名の情熱」による使命感を燃やしていく背景として重要だからである。さらには、ここで池田勇人政権ないし池田派の情報を蓄積し、やがて佐藤の下でアンチテーゼを示し得た基盤も理解できる(Y-2-1~16、Y-3-1~59)。
 その楠田は、池田との総裁選を決意した佐藤との了解の下、1964年1月にSオペを創設した。メンバーは、「オルガナイザー」たる楠田、同じ産経新聞から千田恒と笹川武男(後に岡沢昭夫)、共同通信から麓邦明、通産省から山下英明が参加した。また、佐藤派(周山会)の政治家から政策通の愛知揆一がキャップに選ばれた。
 佐藤の直裁事項で少数精鋭が隠密裏に行動するSオペは、総裁選で勝利を収めての政権獲得とその後の方向づけのため、政策ビジョンの提示とメディア対策を担うとされた。その構想を楠田は、ケネディ大統領のブレーン集団「ケネディ・マシーンの東洋的アプローチ」と記している。ケネディ暗殺の僅か2日後のことであった。
 ただし、この初期構想は、大統領とそのスタッフが議会・政党から独立して行政権を担うアメリカ大統領制のイメージに引きずられたかもしれない。「周山会とは全然別個に運営」、派閥・資金の活動は「直接タッチしない」、「将来インナー・キャビネット的なものにまでリフトアップ」との文言がそれである(E-1-2~5)。日本国憲法が規定する議院内閣制では、議会の過半数を獲得して行政権を担う与党や派閥を無視し得ない。
 それを最初に思い知るのは、佐藤派内のブレーン争いであった。『楠田實日記』未所収の日記メモには、佐藤派の重鎮・橋本登美三郎による「橋本オペレーション」との「二本建て」に苦心する様が記されている。ブレーン集団がSオペの一本建てとなったのは、愛知キャップの積極的な関与を引き出し作成した第一次政策案が、佐藤に高い評価を受けた5月であった。「Satoが全面的にこのオペレーションにコミットメントしたことに一同安心」。ここから、政策案の改訂作業は加速化する(E-1-167~169)。
 さらにSオペは、今度は党内の「政局問題」に直面した。総裁選の情勢が芳しくなかったからである。Sオペは第二次政策案を掲げ、保利茂ら佐藤派に結束と今回の総裁選の政策ビジョンで戦う「歴史的意義」を訴えた。自民党が「近代化するのか脱皮するのか」の転換期にあるとしたのである。そこから水面下の忍者部隊として、福田赳夫との連携、他派閥工作として三木武夫や灘尾弘吉への書簡作成、各種のメディア対策、そして最終案に向けた佐藤派からの合意調達に奔走していった(E-1-15~51)。
 7月初め、最終案「明日へのたたかい」は完成した。楠田らは、政策ビジョンの提示は政局問題と密接不可分なことを学び、「東洋的アプローチ」を固めていったのである。

3. 第2期(1):「明日へのたたかい」の継続

 総裁選は、池田陣営の勝利に終わった。だが、佐藤陣営は、「明日へのたたかい」で大きな布石を打ったと言えよう。高度成長のヒズミ是正のため人間尊重の福祉国家を謳った「社会開発」のアンチテーゼを掲げ、外交問題は総裁選に持ち込まない方針となったものの、沖縄返還が検討され、その後の総理官邸の交渉関与に重要な意味を持った。結局は未着手となったが、第Ⅴ節が指摘しているように、この時期から日中国交の具体的な布石まで水面下で打たれていた。Sオペが、いかに佐藤から信頼を得たかが窺える。
 もっとも「明日へのたたかい」は、「当時の世論を政権構想の形にして凝縮して提起したもの」であったが、「政策論としては、随所に拙さ」が残るものであった(千田恒『佐藤内閣回想』中央公論社、1987年)。だが、純粋な政策立案のみならば官僚機構に任せればよい。
 Sオペ資料で随所に見られるのは、新しい保守政治を打ち立てる「ビジョン」「哲学」との文言である。ブレーン政治の真骨頂は、時代と世論を読み取り、知識や哲学を集約したビジョンを方向づけることで、新たな政治を創り出す営みである。第Ⅰ節に詳しいように、この「言力」の営みを通じてSオペは、冷戦イデオロギーによる保革対立を相対化し、「右フック、左パンチ」で知られる新たな均衡点をもたらしたのである。
 その決定的な場面は、Sオペ内の激しい議論を経て、愛知キャップら佐藤派に根強かった改憲論を封印したことにある。これを自民党内で右寄りとされた佐藤が受け入れたことで、60年安保後の池田政権に続き、日本国憲法は全党的な定着をみる。ここに戦後保守は、内政・外交にわたる幅広い政策課題に安定して取り組む基盤を得たのである。
 第Ⅲ節で明らかとされているように、こうした佐藤政権における社会開発と憲法問題には、若きブレーン集団による戦後の新しい価値観に基づくビジョンが込められていた。国民主権や基本的人権の尊重に基づく「人間尊重」のスローガンは、外交・安保政策の観点以外からも社会党のリベラル色を保守党に吸収する試みであり、また、従来は労働対策や失業対策が主眼であった福祉国家の意味合いを変更するものであった。
 「池田内閣の社会保障問題のとらえ方は、恩恵を与えてほどこすという旧い概念の域を出ていない」と楠田が佐藤に述べているのは、その自信の表れだろう(E-1-167)。やがて、住宅・交通・公害・物価など生活者優先のビジョンは都市政策へと発展し、その後の田中派や宏池会による、戦後保守の主流になった路線の地ならしとなった。
 1964年8月、総裁選敗北の直後からSオペは再開され、「明日へのたたかい」のビジョンも継続された。それは、池田派にパイプを持つ田中の情報もあってか、近いうちの政権禅譲を想定していたからである。既にSオペは、佐藤にとって不可欠の存在となっていた。このころ楠田は、「Kオペレーションは日本の政治の中枢としての機能」を果たす、とのやや高揚した使命感に溢れる手紙を親族宛てへ送っている(E-1-53~55)。
 10月、池田は前がん症状を理由に辞任を表明した。準備万端であったSオペは、すぐさま総理就任談話や想定質問の作成に取りかかっていったのである。

4. 第2期(2):政権発足後の模索

 1964年11月、佐藤政権が発足した。Sオペの当面の課題は、政策ビジョンの提示とメディア対策に加え、演説・答弁案の作成、ブレーン政治の拡充であった。その連絡体制は、新キャップとなった佐藤派の古参・西村英一、前キャップの愛知揆一、佐藤側近から首席秘書官となった大津正らが中心とされた。
 注目すべきは、これまでのSオペの「歴史的経過、構成や総理との精神的なつながり」を官房長官の橋本、副長官の竹下登らに理解してもらうよう、佐藤の処置を求めたことである(E-1-59~65)。すなわち、総裁派閥となった佐藤派の連絡体制を基盤に、Sオペのビジョンを総理官邸に反映させることが意識されたのである。
 私的なブレーン集団であるSオペが、このように政権発足後にも佐藤に重用されていったのは何故であろうか。官僚機構は総理官邸に向けひしめき合い、前述の「橋本オペレーション」のごとき競争相手は、佐藤派のみならず全党的に広がったであろう。社会開発などのビジョンに基づいた「言力」が、自分に何かが足りないと模索を続けていた佐藤に新しい戦後世代による息吹と認められていったのは確かである。だが、それらだけでは、「四〇年不況」に苛まされる中で政権運営に推進力を欠いていたかもしれない。
 第Ⅳ節が指摘するように、その推進力は、総裁選で持ち込まれなかった沖縄返還という外交課題であった。Sオペは、政権発足から早い時期での訪米を進言し、アメリカ側への沖縄返還の提起を積極的に打ち出した。これが1965年1月のジョンソン大統領との会談での確かな感触とそれに続く訪沖表明につながり、Sオペは波に乗る(E-3-67、73a)。
 同じころ楠田は、Sオペが「拡大再生産に入る時期」であることを佐藤に書き送っている。いまや「池田路線継承と佐藤ビジョンの調和」という当初の課題を脱し、沖縄返還や社会開発など「新しいビジョンと権力の座にある現実をいかにつないでゆくか」が、7月の参院選と次期総選挙を見据えた課題としていたのである(E-1-73)。Sオペへの信頼が不動のものとなり、楠田の総理官邸入りへの道筋が見え始めている。
 内閣改造で自前政権となった6月からは、「一九七〇年にいかにのぞむか」の長期ビジョンも見据え、政権の基本テーマが検討された。そこでの連絡体制は、政策面は愛知、各方面(党内)は西村が中心とされ、また、大津だけでなく外務・大蔵・警察の総理官邸に出向の三秘書官とは既に「コミュニケーション良」と記されている(E-1-87、108)。
 こうした総理官邸とSオペの融合は、この時期に散見されるフリートーキングの会合速記録からも窺える。各種草稿や断片メモより個々人の考えが詳細に記され、さらに佐藤派や各省庁などのフレキシブルな参加で政治を創り出す構造が浮かび上がる。
 例えば1966年1月には、総理施政方針演説の勉強会が開かれている(楠田は訪米中)。議論は多岐にわたり、特に「各省の材料」を寄せ集めた従来の演説を国民向けにしたいという橋本官房長官の認識は興味深い。「総理はやっぱり指導者なんだから、もう一歩進んだもの…そういうビジョンの演説をやらせたいんだな」。演説案の作成は総理官邸とSオペによる重要な政権ビジョンの発露であり、佐藤のリーダーシップを支える上でも重要なポイントだったのである(E-2-1)。
 ところが、8月の内閣改造に続き宏池会の宮澤喜一から「喜んで協力したい」との意向が伝えられ、Sオペの強化につながると喜ばれた矢先、佐藤政権は「黒い霧事件」に見舞われる。発足以来の政権危機に佐藤は、12月の総裁選後に内閣改造を断行し、さらに総選挙に打って出る起死回生策を目論む。注目すべきはSオペが、衆議院解散という最高機密情報を知らされた上で、記者会見の想定問答や総理演説の草案作成に取りかかっていることである。既に信頼は絶大なものがある(E-1-126、137~141)。
 総裁選で再選した佐藤は、宏池会の長老・福永健司を官房長官、木村俊夫を留任の官房副長官、福田を幹事長、宮澤を経済企画庁長官へ抜擢させる内閣改造をもって、12月末に衆議院を解散した。翌1967年1月の総選挙は、下馬評を覆して自民党は安定多数を維持し、社会党は敗北宣言を出した。ここに、戦後最長政権の基盤は確立したのである。

5. 第3期(1):首席秘書官の就任

 この一連の過程で、沖縄返還が佐藤政権の至上命題に位置づけられ、楠田が首席秘書官として総理官邸入りする方針が固まった。その反面、社会開発の影は薄くなったが、そこで打ち出された政策課題が着実に消化されているということでもあった。
 1967年2月の第2次佐藤政権の発足では、所信表明演説案の作成にあたり「SOP→官房長官→総理に報告→まとめ→閣僚の意見聞く→閣議決定」というルーティンが既に確立している記述が、日記メモで確認できる。引き続きSオペは忍者部隊であったが、楠田を媒介項に、総理官邸との一体化が水面上でも図られたのである(E-1-170)。
 だが、前途は多難であった。各方面の思惑が交錯した就任前後の経緯は、『楠田實日記』未所収の日記に生々しい。他派閥から官房長官となっていた福永との挨拶では、「そつのない男だ」との微妙な記述があり、3月の辞令交付では、交代となる前秘書官の「大津はさすがに機嫌悪く、何もひきつぎがない」と途方に暮れる。同じ党、同じ派閥でも、歴代の総理官邸の引き継ぎはこうした有様であった(Y-1-1、2)。
 「深刻にならざるを得なかった。わが国の内閣制度のもとでは、一体ダレがものを考えることになっているのだろうか」。楠田は、Sオペと総理官邸をさらに一体化する必要性を痛感する。それでも、直後から三秘書官がSオペ会議に随時参加するなど、楠田には3年にわたる連絡体制の蓄積があった。佐藤との新しい距離感に苦心しつつも秘書官室に慣れ始め、福永の病気辞任で副長官の木村が官房長官に昇格した5・6月には、次の4つの戦略目標が定まってきた(E-1-142、楠田實『首席秘書官』)。
 第1は、記者クラブとの関係である。メディア対策の詳細は『楠田實日記』に詳しいが、本資料では、国民との対話への苦心も窺える。毎年1回地方開催され重要なメッセージも多い「一日内閣」(K-2)、NHKと民放各局の持ち回りで放映され各界識者の人脈作りに資したテレビ番組「総理と語る」(K-3)の準備資料が目をひく。
 第2は、各省庁との連絡である。前項で見たように総理演説はリーダーシップを問われる重大な場面であり、横並びに陥りがちな各省庁とは緊張と補完の関係にある。総理の演説原本・演説集(A-1、A-2)、国会答弁集・答弁メモ(B-1)、その前段階で各省庁から出される想定問答集(C-1)、演説・答弁の草案メモや各省庁の演説要望事項(K-1)は、国会論戦と国民へのメッセージを重視する佐藤や楠田の情熱が垣間見える資料群である。野党を「素人の集団」とし、「メモ作戦は総理も喜んでいる」と誇らしげに記す様は、楠田を媒介に総理官邸とSオペが機能していることを示すものである(『楠田實日記』)。
 第3は、政権スケジュールの組み立てである。沖縄返還など政権課題に優先順位をつけ、布石を打ち、メディア対策を練る。その前提として、総理官邸の日常業務も滞りなく正確にこなさなければならない。本資料には、総理の面会や日程の詳細なノート(M-1)、執務・面会・会議・発言などを記した秘書官メモや資料・日記の基となった備忘的なメモ(Y-3-64~189)が含まれているが、その仕事量に圧倒される。
 第4は、知識の導入である。前述の演説案などで既に個別に行われていたが、ブレーン政治を強化すべく国民の叡智を吸い上げていく組織的な試みは、楠田が首席秘書官に就任してから本格化した。本資料には、外交全般を広く議論した国際関係懇談会などの会議録(H-1)、識者・学者の見解や演説案への意見(H-2)が含まれている。政治と知識の融合は、佐藤政権のビジョンをさらに広げていった。

6. 第3期(2):総理官邸の空中分解

 1968年11月、佐藤は総裁三選された。その盤石の体制から翌1969年11月、佐藤・ニクソン会談により政権の最大業績となる沖縄返還が実現した。直後に打って出た総選挙で自民党は圧勝し、1970年1月に発足した第3次政権は、6月の「70年安保」の自動延長を平穏に迎えることになる。総理官邸の絶頂期だったかもしれない。
 雲行きが変わり始めたのは、10月の総裁四選からである。沖縄返還に忙殺される間に田中が急速に党内を浸食する一方で、後継者と目した福田の態勢が整わず、佐藤は余力を残しての花道引退を断念した。総理官邸にも微妙な雲行きが訪れる。「俺もそろそろ身辺の整理をしなければならない・・・大津を秘書官にすることにした」。首席秘書官の地位は継続されたものの、楠田は「憮然たる気持ち」になる(『楠田實日記』)。
 今度こそ花道引退を整えるべく、1971年7月の内閣改造では竹下が官房長官に抜擢された。だが直後、ニクソン大統領の中国訪問発表、ドル・金の兌換一時停止という「2つのニクソン・ショック」に見舞われる。佐藤政権は、急速に求心力を失った。
 それでもSオペは、総理官邸に長期的観点に立ったビジョンを提供する模索を続けた。沖縄返還で戦後外交が初めて「フリーハンド」を持つ一方で占領以来の「甘えの構造」を断つ時期にきたことの歴史的な意味を問い、円切り上げという「戦後体制の終わり」や社会の「価値観」のいっそうの変化に対応すべく社会開発や経済政策などの国内施策を総点検する。総理官邸は、走り続けるしかないのである(K-5-101〜104)。
 1972年5月には、田中が衆参で81名もの佐藤派議員を引き連れ派内派を結成した。次期総裁選を睨んだ、事実上の乗っ取りによる田中派の旗揚げである。6月に入り、佐藤はついに楠田に引退声明の準備作業を指示した。
 ただし佐藤は、「まだ、官房長官にも言わないように」「福田君から票読みの表が来ているそうだが、これは秘密にしておいて下さい。この問題については、竹下も大津も信用できないから」と伝えている。竹下は田中派に馳せ参じ、大津まで田中支持に回っていた。総理官邸が空中分解する中、楠田の孤独な作業を支えたのは、結局、千田や麓などSオペの創設メンバーであった。安岡正篤の書から「啐啄同機」の文言を引き出した千田に、「人間、持つべきものは良き友」と楠田は記している(『楠田實日記』)。この引退会見に至る準備作業は、前述した福田の票読み表を含め、本資料に含まれている(K-7)。
 だが、周知のように引退会見は、佐藤が誰もいない会見室からテレビに語りかける異様な光景となった。竹下官房長官から内閣記者会への伝達に齟齬があるなど、総理官邸が機能しなかった。「啐啄同機」の真意は忘れ去られ、最後のメディア対策に失敗した楠田は茫然とした。7月の総裁選でも、事前の票読み通りの福田敗北に落胆の色を隠せない。
 それでも、2日後に佐藤と総理官邸を離れる時、池田政権から佐藤政権、首席秘書官の就任時に何の引き継ぎもなかった経験に鑑み、楠田には心に期すことがあった。田中政権で秘書官となった榎本敏夫に、「秘書官として事務的に必要な事項を整理し、ノートしておいた」ものを渡すことであった(『楠田實日記』)。政局問題を越えた国家の視点に立ち、楠田は、最後に至るまで首席秘書官としての使命感を失わなかったのである。

7. 歴史としてのSオペレーション

 以上、楠田を通じてSオペと総理官邸の軌跡を辿りつつ本資料を解説してきた。これらを踏まえ、冒頭で述べた本資料の意義を改めて咀嚼してみたい。
 第1に、ブレーン政治とは純粋な政策立案が役割でない。その真骨頂は、時代と世論を読み取り、知識や哲学を集約したビジョンを方向づけることで、新たな政治を創り出す営みである。そして、そこでの信頼醸成が円滑に進んでこそ、新しいビジョンを受け入れるリーダーシップが発揮されるものである。
 楠田が将来への「布石」と胸を張ったこの営みを、千田はこう代弁する。「時代がその政治に対して何らかの新しい目標達成を求めている時には、当然、政治にも変化が望まれる。官僚機構にその変化への機能を期待することはできない。政治における変化を促す役割を果たすのが知識人の役割ではないのか」(『楠田實日記』『佐藤内閣回想』)。
 第2に、総理官邸に求められるのは、むやみな権限強化や制度改革でない。与党や官僚機構に加え、国民やメディアなど全てをつなぐ拠点として、どのように機能させるかである。その課題は、2001年に内閣機能強化がなされた今日でも普遍のものであろう。
 楠田は後に、総理官邸は官僚機構のなかで唯一残された「柔構造」であり、その理想は「コンパクト&エフェクティブ」であると述べている。それは確かに、引き継ぎもなく貧弱な組織体制でもあった。だが逆に言えば、信頼醸成に基づく「中核となるグループ」を一たび形成すれば、全ての拠点に変貌する「柔構造」を持つものであった(楠田實「内閣機能についての考察」『以文友会、以友輔仁』)。
 第3に、戦後政治史における佐藤(政権)およびSオペの再評価は進んでいくであろう。これまでの漠然としたイメージは、戦後の保守本流を最初に築いた吉田茂、福祉国家を掲げつつ戦前復古的な保守とされた鳩山一郎・岸信介、その後に戦後保守の主流を確立した田中派や宏池会の系譜というものである。吉田派の直流であると同時に岸の実弟で右寄りの保守とされた佐藤は、この狭間で評価を確定しにくい存在であった。
 その軌跡からは、上記のどれでもない、失われた可能性(選択肢)としての「戦後保守」が垣間見える。時代の変化に合わせて社会開発を打ち出し、沖縄返還で戦後の終わりを描き、70年安保を平穏に乗り切った佐藤とSオペは、戦後最長政権を築き上げた。それは、素人たる大衆に分かりにくいエリート的な退屈さを持ち合わせていたかもしれない。
 だが、ビジョンに基づく筋論を絶やさず政治を営んでいこうとしたその姿勢は、武骨だが柔軟な保守主義を体現し、戦後政治に古さと新しさを、保守とリベラルを包括させるものであった。その具体的な戦後政治史への位置づけは今後の研究課題だが、「楠田實資料」は、その解明をじっと待ち続けているように思えてならない。

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第Ⅲ節 国内政策―国会答弁、記者会見など国民への働きかけを含めて

村井 良太(駒澤大学教授)

1. 概要

 ここでは国内政策に関わる資料について、国会答弁や記者会見など政策をめぐる国民への働きかけの場を含めて解説する。Sオペレーションが官邸・官僚機構・与党の三者をつないでダイナミズムを不断に生み出していく政権のエンジンとなる中で(第Ⅰ節第Ⅱ節参照)、国内に関わる個々の政策はどのように形成、実施され、国民に伝えられたのだろうか。
 資料を残した楠田と政権との関わりが佐藤政権期の中で3段階に分かれることにはあらためて注意が必要である。新聞記者の楠田がSオペを率いて人知れず佐藤政権誕生に尽力した第1期(1963年12月~1964年11月)、政権誕生後に同じく政権外から支えた第2期(1964年11月~1967年2月)、楠田が総理秘書官として官邸に入って働いた第3期(1967年3月~1972年7月)のそれぞれの局面で、楠田にとっての国内政策の意味は異なる。また、資料の残り方によって、どの政策課題のどの側面が官邸、より厳密には楠田を中心に処理されたのかをうかがうことができる。
 「楠田實資料」における国内政策資料の中心はK「内政」であるが、A「総理演説・挨拶」、B「総理国会答弁」、C「国会想定問答」はもとより、Y-3「メモ帳」、さらにH-2「有識者の見解」やI「外交(全般)」(中でもI-2「海外要人と総理との会見録」)の中にも多くの情報が含まれている。また、例えば日米首脳会談での経済問題への言及など、外交資料中にも内政に関わる情報がある。膨大な資料であるので何を知りたいかによって優先順位をつけていく必要があるが、理解を進めるにつれて網羅的な利用が不可欠であると言えよう。

2. 「社会開発」論の問題系―住宅政策、経済政策から公害対策・福祉政策へ

 国内政策資料として、まず「社会開発」論の問題系が重要である。公害問題への取り組みを基準に評価されることの多い「社会開発」論であるが、元来は住宅政策や交通政策をはじめ高度経済成長の歪み解消を目指す幅広い政策群で、長期政権の中で焦点が移行していった。その特徴は第1に、1964年7月の自民党総裁公選に向けた政策文書「明日へのたたかい」の作成過程でもともと高度な福祉政策として採り入れられ、厚生省が中心的な役割を果たすと考えられていたことがSオペ関連の資料から読み取れる(E-1-21、E-1-167などE群)。第2に、「社会開発」論は高度経済成長によって生み出された様々な課題に科学的に対処していく社会工学的なアプローチであり、未だ「中進国」である日本において経済開発が社会開発を支えるとともに社会開発が望ましい経済開発を実現すると考えられていた(K-1-125~127、K-5-1~3)。「社会開発」政策のもう一つの背景は池田政権期以来の安定成長論であり、経済計画に社会開発の考えが導入される一方、1967年の公害対策基本法にはよく知られるように経済調和条項があった。佐藤政権は発足直後から40年不況への対応に追われ、山一証券救済では日銀特融を行い、赤字国債も発行した。
 そして第3に、「社会開発」論は1960年に騒動下で改定された日米新安保条約が固定期限を迎える1970年を強く意識しつつ、冷戦下での保革対立のツールであるとともにその止揚を目指すものであった。すなわち、東西問題を南北問題ととらえて治安ではなく経済問題で遅れたグループとして理解し、池田政権以来の労働者の資産形成を歓迎するなど冷戦下での労働政治でもあったのである。ILO87号問題についても資料がある(E-2-125)。以上の性格から第4に、当初の「社会開発」論は住宅建設計画法などに結びつく住宅政策を中心にしながらも「人間尊重」を合言葉に交通事故への対策や満員電車の解消などあらゆる現代的問題が対象であり、外遊ならぬ内遊によって首相が問題を見て回ることも試みられた(E-1-126~128)。楠田らは政権発足後に厚生省の伊部英男を補佐官とすることを進言したが、佐藤は大規模懇談会を組織し、総花的な印象をさらに強めた。
 このように百花繚乱と咲き誇った「社会開発」政策も、楠田が官邸入りした1967年3月以降は次第に後景に退いていく。それは沖縄返還交渉が本格化し(第IV節参照)、「70年安保」が目前に迫る中で後述する大学紛争などが政権と社会の関心を集めたためでもあるが、「社会開発」論は経済政策も含めた政権の施策全体に定着し、住宅政策が着実に進むとともに、特に都市政策へと発展していったのであった。
 そして沖縄返還交渉と大学紛争に目処をつけた佐藤政権は1970年を内政の年と位置づけたが、繊維交渉など外交案件に追われた。その中で顕著な成果を上げた内政課題が公害対策であった(K-5-55~67)。公害国会で公害対策基本法の経済調和条項は一掃され、さらに環境庁が新設された(K-1-212)。また、「社会開発」論の出自を考えれば1970年11月に「福祉なくして成長なし」が議論されていることは興味深い(K-4-255~257)。このような流れを受けて迎えた田中角栄内閣下の1973年は「福祉元年」といわれる。

3. 「戦後」の問題系―憲法、天皇、自衛隊、明治百年、行政改革、革新自治体

 他方、ひるがえって1965年は敗戦から20年目の年であった。1964年に成立し、1972年に退陣した佐藤政権期は日本国憲法が定着する時期に当たる。池田勇人政権で憲法調査会が答申を出し、愛知揆一は憲法改正を主張することをSオペに求めたが、結局、「憲法がどうあるべきかについて国民とともに考えていきたい」と記し、結果的に憲法の定着を促した(E-2-145、K-5-95も参照)。その中で倉石発言問題についても資料がある(K-4-139~143)。
 憲法を論じる上で主要論点の一つが天皇の問題である。天皇が元首であるかの位置づけをめぐる若干の資料がある(K-5-70~73)。そしてもう一つが自衛隊の問題である。佐藤政権は発足早々に三矢問題が起こり、シビリアン・コントロールについて自衛隊を憲法内に包摂していく。さらに武器輸出三原則が示され、1970年には非核専守防衛国家が謳われた。1972年春には再びシビリアン・コントロールについて検討されている(F-2-13~20)。
 佐藤は占領改革の行きすぎに批判的で、時に憲法改正を論じたが、敗戦をどのように受け止めていたのか。和歌山での「一日内閣」や「青年と語る」(E-1-129)の演説、そして外国要人との会見記録が理解の手がかりとなる(I-2群)。同じ問題として、佐藤は1968年に「明治百年」を記念した(K-4-195~204)。また佐藤政権で祝祭日法案が成立し、建国記念の日が定められた。2月11日は明治期に定められた紀元節に由来する。このような佐藤の姿勢は復古的に見え、「憲法20年」を祝うべきとの批判を受けたが、楠田の執務メモでは佐藤がケネディ政権のニュー・フロンティア構想であるといえば説明しやすいと語っている(Y-3-106)。それは伝統の上に新たな未来を築こうとする前向きな姿勢であった。佐藤は政権発足時から文化庁の設置にも熱心で、「文化国家」は「平和国家」とともに敗戦の反省に立った戦後日本の原点となる国家像であった。
 また、文化庁と環境庁が新設された行政改革について、「明日へのたたかい」では政府支出効率化のため「官庁機構を整理すべきものは整理して新設すべきものは新設して再編成しなければならない」と簡単に記されていたが、佐藤政権は総定員法を設け、内閣官房長官も国務大臣とした。それは戦後改革後の行政需要や社会環境の変化に応じた取り組みで、「臨時行政調査会の改革意見に基づく措置の状況一覧」など施政方針演説作成用に資料が集められている(K-1-116)。
 そして、地方分権も戦後改革の一つの柱であったが、佐藤政権期には大都市圏を中心に革新自治体が拡大した。社会党か共産党もしくは両者の支持を受けて当選した首長を言うが、特に佐藤政権が直面したのは東京と沖縄の革新都県政であった。首都東京は1970年の治安問題としても意識されており、沖縄は沖縄返還と深く結びついていた。1965年の都議会汚職問題を発端とする1967年の美濃部亮吉都政の誕生に際して、Sオペは当初、別立ての「Tチーム」を作って対処することを進言し(E-1-108)、選挙後には美濃部に科学チームがついていることを指摘する(E-1-142、Y-1-1)。さらに1971年4月の選挙では演説資料を作成している(K-4-450)。他方、1968年には琉球政府初の民選主席として野党候補の屋良朝苗が当選し、1972年には初代沖縄県知事に選ばれた。楠田の執務メモには当選後の屋良と佐藤の会談録など、その間の貴重な情報が含まれている(Y-3-99、Y-3-111など)。

4. “政治の季節”への対処―大学問題・大学紛争、よど号ハイジャック事件、三島事件

 こうした戦後、冷戦、高度経済成長の文脈が混ざり合い、ベトナム戦争によって発火したのが大学問題であった。高度経済成長下でベビーブーマーを迎える大学は1960年代を通して急激に拡張され、大学の設備、卒業後の進路など学生の置かれた環境は一変していた。その中で大学毎の個別問題として始まった学生運動はベトナム戦争や「70年安保」にも刺激され、暴力化し、新左翼学生に指導された全国規模の大学紛争へと発展していった。1968年は日本に限らず現状への暴力的な異議申し立てが世界的に拡がった年でもあった。発端の一つが佐藤外遊を阻止しようとして学生に死者を出した1967年10月の第一次羽田事件であった(J-6-2-64~74)。その後、1968年に日本大学や東京大学で紛争が激化する中で、東大の入試が中止された。その間の資料は時々刻々と状況が変化する中で何が問題であったのかを生々しく伝えている(K-6群)。
 大学紛争の社会的記憶は1969年1月の東大安田講堂の攻防に注目しがちであるが、これは一つの折り返し地点に過ぎなかった。大学紛争を教育問題や社会問題として対処しようとする政府と、治安問題として強硬な対処を求める与党自民党とのやりとりの中で臨時大学管理法が立法されていく(K-6-3、K-6-43)。また、紛争後の新たな大学像について学者に意見や検討を求めている。Y-3の執務メモにも重要な記録が多く残されており、政権にとっての問題の重要性が伝わってくる(Y-3-141~145)。
 佐藤政権は他にもベトナム反戦運動の過激化や成田空港問題と向き合ったが、次第に暴力的な運動への社会の支持が失われていく中で1970年3月には赤軍派が「よど号ハイジャック事件」を起こした(K-8群)。また、11月には新憲法に代表される戦後体制を否定すべく自衛隊に蹶起を求めた「三島由紀夫事件」が起こった(K-9-12~21)。

5. 国民への“発信”―国会演説、一日内閣、総理と語る、総理発言、選挙演説、記者会見

 このような政策はどのように国民に届けられるのか。「楠田實資料」の中の国内政策資料を考える上で、国民への働きかけやメディアの役割は重要である。楠田が総理秘書官就任時に求められたのは政策とマスコミ対策であった。
 佐藤政権にとって最も重要な国民説得の場は、憲法で国権の最高機関と位置づけられた国会であった。「楠田實資料」には国会関連資料が多く残されている。すなわち、佐藤の演説や挨拶(A群)、答弁(B群)、想定問答(C群)について、楠田らは、各省庁が盛り込むべき事項や参考資料の提供を受け、外部有識者や官僚の意見をまとめ、佐藤とも方向性をすりあわせながら作成にあたっている(K-1群)。佐藤は国会での与野党の議論を国民教育としても重視していたようであり、非核三原則など重要な政策的立場は国会での発言を通して国民に示された。
 国会での演説や答弁以上に楠田らの裁量が発揮できたのが、年に一度の国政に関する公聴会、いわゆる「一日内閣」であった。「楠田實資料」には1967年(和歌山)、1968年(岐阜)、1969年(松江)、1970年(宇都宮)、1971年(宮崎)のものが残る(K-2群)。チェコ事件直後の岐阜では「国を守る気概」を説き、過疎問題を取り上げる松江では急遽、大学問題が主要論点となるなど政策の焦点の変化が最終案に至る準備過程からも追跡できる。これら楠田らが重要と考えた演説は、A-2の内閣総理大臣官房編『佐藤内閣総理大臣演説集』(1970年)、同第二集(1972年)にまとめられている。
 佐藤長期政権期はテレビが本格的に普及した時期でもあった。池田政権以来、テレビによる首相鼎談広報番組「総理と語る」が放映されていたが、楠田の緻密な事前準備の資料が残されている(K-3群)。国民への広報が目的であるが、事前取材など楠田の準備によって政治に叡智を集める場ともなり、佐藤の意見も伝わってくる。
 さらに「楠田實資料」には首相挨拶や談話、声明案などを執筆するに際して集められた関連する有識者の意見が多く残されている(K-4群)。また、衆議院議員総選挙や参議院議員選挙を始め選挙演説の資料も多く残されており、さらに前述の革新自治体との関係で国政選挙に止まらず地方選挙にまで楠田らが関わっていることは興味深いと言えよう。
 そして本資料の目玉の一つが記者との膨大なやりとりの記録である。記者会見向け資料がK群にあるだけでなく、外国人記者とのやりとりも多く残されており(I-2群)、何より楠田の執務メモ(Y-3群)が白眉と言える。そこには佐藤の肉声が伝わるだけでなく、その時々に何が問題になっていたのか、また議論の方向性などが示されている。

6. 1970年以後の“新たな大国像”―大阪万博、沖縄返還後の日本、広島訪問、引退挨拶、ノーベル平和賞受賞

 佐藤政権は総選挙での大勝を得て1970年を迎えた。沖縄返還合意に成功した佐藤政権は沖縄返還後の政策課題を展望していく。40年不況を乗り越えた日本は高度経済成長を続け「中進国」を脱する一方、ヨーロッパや日本の復興とベトナム戦争の痛手によって米国が国際的な問題対処能力を低下させたことで、繊維問題(D-2-50~53など、J-9-55、K-4-271)を始め「円切り上げ」(K-4-97、K-4-205~207)など繁栄の帰結としての新たな課題に直面した。その中で1970年の施政方針演説は楠田らの工夫が生きたものであり、軍事大国でもなく、福祉至上主義でもなく、「内面の充実」を図ることで「内における繁栄と外に対する責務との調和」を図る新しい大国を構想した。このような1970年の日本像は大阪万博を通して世界にも発信されていく(K-4-34)。さらに、佐藤は広島の平和祈念式典に参列した初の首相となる(K-9-22~32)。こうした新たな時代の内政課題と向き合うために1970年から1971年にかけて未来学者坂上二郎の意見を継続的に聴取していることも興味深い(H-2-38~61)。
 長期政権もいつかは終わる。楠田は佐藤の引退挨拶に渾身の努力を傾け、佐藤政権を評価しようとする(K-7群)。しかし当日、佐藤の誤解から新聞の偏向をなじって喧嘩別れのようになってしまう。このような後味の悪さの中で楠田らにもう一度機会を与えたのが1974年の佐藤のノーベル平和賞受賞であり、スピーチの作成であった(L-1群)。内容は外交・安全保障が中心であるが、平和の探求が「個々人の日常生活と深く結びついている」と述べられたことは、佐藤政権チームが掲げた「社会開発」論の10年越しの形として特に記しておきたい。

7. 終わりに

 以上、膨大な資料である。資料との接し方では、例えば密約文書を米国の公文書館で発見と言ったように膨大な資料の中からお宝を探すという理解があるかも知れないが、膨大な資料を量として分析することが重要である。あらゆる資料には文脈がある。文脈を位置づけ得てこそのお宝資料である。また、資料が膨大であればこそ歴史研究者やジャーナリストの技量が問われる。何を問うか、いかに明らかにするかが重要であり、すでに公刊されている文献や資料が新たな資料の公開によって実は一級資料であったことが分かる場合も少なくない。本解題も執筆時点での研究状況を反映しているが、本資料の仔細な分析はその理解をも否定していくかもしれないと思えば期待感に胸躍る貴重資料である。本資料の公開は編者和田純先生の献身的な努力による。深くお礼を申し上げたい。

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第Ⅳ節 沖縄返還・日米関係

中島 琢磨(龍谷大学准教授)

1. 沖縄返還への思い

 沖縄返還と日米関係は、佐藤栄作政権の枢要な政策分野であったため、「楠田實資料」にはこれらの分野の文書が数多く収められている。楠田は、沖縄返還・日米関係と日中関係の文書をある程度他の資料と分けて保管していたという。それだけ楠田の関心がとくに強かった分野だと言えよう。このうちⅣ節では、沖縄返還・日米関係を中心に取り上げたい。
 楠田が1964年から65年にかけて沖縄返還を検討、提起していくプロセスは、初期のSオペの複数のノートや佐藤への書簡から辿ることができる(Sオペについては第Ⅱ節参照)。これらを読むと、来る1970年に向けた国家像を描くなかで検討されたのが、沖縄の返還であった。たとえば「政策案」というタイトルが付された大学ノートには、基地協定(日米安保条約とは別途に基地の使用を保証する協定のことだと推察される)を結んだうえでの返還論が打ち出されている(E-1-169)。また楠田は佐藤内閣成立後の1964年11月28日付で、「訪米姿勢について」と題した佐藤への文書を認め、沖縄返還に向けた米大統領への提起を進言した。このなかで楠田は、日米の意見の相違を正面に出していくことが1965年のテーマだと気焔をあげている(E-1-67)。当時、沖縄返還は当分先の話だという見方が一般的だったなか、佐藤への一連の進言文書には、佐藤派の番記者という関係から率直な物言いができた楠田の勢いがあらわれている。権力闘争の渦中にいた63歳の佐藤から見たとき、派閥抗争よりも政策だと訴えた、40歳になったばかりの楠田のエネルギッシュな提言は、師匠の吉田茂の助言とはまた異なる魅力をもったのではないか。
 Sオペが早くから勧めたのが、佐藤訪沖であった。戦後20年目の終戦記念日が終わってすぐとなる1965年8月19日、佐藤は現職の総理大臣としてはじめて沖縄を訪問した。楠田は「沖縄訪問」とタイトルを付した厚紙に、20点の文書を紐で綴じて簿冊にしている(F-1-1~20)。こうした簿冊は楠田が官邸の執務室から退去する際に綴じられたものだという。「沖縄訪問」の簿冊には、8月19日の那覇空港での佐藤の到着ステートメントから21日の離島の挨拶まで、8つの佐藤のスピーチ案が収められている。スピーチのなかでは、とくに那覇空港のステートメントにおける「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって『戦後』が終わっていないことを、よく承知しております」という文言が有名で、首相のスピーチがここまで後世に残ることはめずらしい。各スピーチ案には楠田による加筆修正がなされており、楠田たちによる名演説の作成の経緯を辿ることができる。楠田の「言力政治」(第Ⅰ節参照)の一場面だと言えよう。
 1967年に総理秘書官となった楠田は、同年の佐藤・ジョンソン(Lyndon B. Johnson)会談、1969年の佐藤・ニクソン(Richard M. Nixon)会談、1971年の沖縄返還協定調印と同協定の国会承認など、外交と内政の難局を官邸の中枢で支え、自らも政策決定に関わった。このうち1967年の佐藤・ジョンソン会談に際して、佐藤は1970年までの沖縄返還合意という時期的目途づけの了解を得ることを目標とした。その検討過程では、沖縄問題等懇談会が打ち出した「両三年内」(事実上、1970年までにという意味)という言葉が重要な意味を持った。楠田は沖縄問題懇談会、沖縄問題等懇談会に関係する文書も保管していた。このなかで「日米合意の目標」と題された文書を見ると、楠田が「ここ両三年のうちに」の語を書き加えて、佐藤・ジョンソン会談に向けた提言としていたことが分かる(F-1-198)。このとき外務省は、「両三年内」の沖縄返還合意という時期的目途づけを目標にすることには反対した。本資料から、「両三年内」の語が佐藤・ジョンソン会談で打ち出されるにあたり、官邸の楠田の意思が介在していたことが確認できるのは重要である。
 1967年11月の佐藤・ジョンソン会談の結果、日米首脳間では、「両三年内」すなわち1970年までに沖縄返還の合意をめざすことを目標とする点で、事実上の了解ができた。しかし他方でジョンソンは、会談後に佐藤に書簡を送り、佐藤訪米の成果を確認しながらも、国際収支問題への日本の理解と対応を要請している(D-1-2)。

2. 「核抜き」返還論の背景 

 1967年の佐藤・ジョンソン会談の結果、沖縄返還が現実味を帯びた外交課題になってくると、国会では沖縄に配備された米軍の核兵器の撤去に対する関心が高まった。「核抜き」返還は実際には難しいと言われていたが、1969年3月10日、佐藤は沖縄の核撤去をめざす考えを国会で表明した。佐藤が「核抜き」返還の方針を表明した背景に、一体どのような認識と判断があったのかは重要な論点だ。この点、楠田の元には1968年から1969年にかけて内外の興味深い情報が集まっており、佐藤の認識の手がかりとなる。
 たとえば佐藤は1968年3月、「『カクヌキ』返かん(日本語)は技術の進歩がもたらすものである。将来自分ではなく国防省が核付き自由使用の必要性を認めなくなるのではないか」というライシャワー(Edwin O. Reischauer)元駐日大使の発言記録(文中の「(日本語)」は、ライシャワーが日本語で「『核抜き』返還」と発言したという意味だと考えられる)に赤線を引いている(F-1-30)。この外交文書は、佐藤の判断材料の一つになっていたと見られる。また外務省北米局(のちアメリカ局)の千葉一夫北米課長(のち北米第一課長)を通して伝えられた、国務省のスナイダー(Richard L. Sneider)と国防省のハルペリン(Morton H. Halperin)の見解や(F-1-264)、佐藤と米メディア関係者との会談記録(F-1-167,168)、および若泉敬の1968年6月の官邸への報告概要(F-1-159)なども、アメリカ側関係者の認識を知る材料になったと考えられる。
 1968年11月の米大統領選で共和党のニクソンが勝利を収めると、佐藤は12月9日と翌1969年2月28日にハリー・カーン(Harry Kern)と会い、安保政策に対する考えを内々に伝えている。記録からは、当初首相官邸がカーンやロバート・マーフィー(Robert D. Murphy)をニクソンにつながる人物として重視していたことが分かる(F-1-66,80)。2月28日の佐藤とカーンの会談については、外務省外交史料館に残されている外務省文書のなかにも記録が残っており、外務省との情報共有がなされていた。
 一方、この時期佐藤の指示で別途アメリカ側と接触していた、高瀬保京都産業大学教授の行動に関する直接の資料は、「楠田實資料」には残っていないようだ。ただし、高瀬のカウンター・パートであるフーバー研究所のアレン(Richard V. Allen)について、1968年2月にニクソンが佐藤にアレンのことを紹介する書簡を送っており(D-2-1)、このときの紹介が年末の高瀬派遣につながったものと見られる。
  また佐藤は、大統領就任前後のニクソンと書簡のやり取りを重ねており、1970年までの沖縄返還合意を目指すという前ジョンソン大統領との間の了解事項が反故にならないよう、注意を払っていた様子がうかがえる。この点、ニクソンも大統領就任式前に佐藤へ挨拶の書簡を送り、「大統領就任後、すぐにあなたの兄(岸信介元首相)と話すことを楽しみにしている」という手書きのメッセージを添えている。佐藤も2月1日付のニクソンへの書簡で、岸信介への言葉に対する謝意を記している(以上、D-2-10, 13)。沖縄返還合意後、繊維問題によって二人の関係は微妙なものとなっていくが、これらの書簡からは、当初の二人の良好な関係が見て取れる。
 楠田の「言力政治」の背景にあった、知識人たちの政策討議の場として重要だったものの一つが、1969年1月に開催された日米京都会議である(F-2-61~68)。会議での議論やその後の沖縄返還に関する提言書は、佐藤の「核抜き」返還論の参考材料となった。また前述の佐藤とニクソンの書簡のやり取りは、1969年3月末から4月初旬にかけての岸信介元首相の訪米へとつながった。岸は4月1日にニクソンと会談し、「核抜き」返還への理解を求めた。福田赳夫蔵相もすでに1968年12月5日にジョンソン(U. Alexis Johnson)駐日大使(のち国務次官)に対し、岸訪米を含めた日本側の意向を伝えており、その記録が大蔵省の用箋で残っている(F-1-320)。佐藤、岸、福田が連携しながら、外務省のラインとは別に、「核抜き」返還に向けた政治家サイドの取り組みを進めていた様子が分かる。
 沖縄返還問題では、国会の動きが大きな影響力を持っており、佐藤たちの対米交渉の内容にも影響を及ぼした。「沖縄」と題されたファイルには、1969年1月から3月にかけての沖縄返還をめぐる国会審議に関する文書などが収められている(F-1-275~284)。ちなみに内政資料にもなるが(第Ⅰ節の4.(2)など参照)、Aのシリーズにも佐藤首相の国会での施政方針演説、所信表明演説、および各重要場面での挨拶・演説集の原本が収められており、赤線部分から、沖縄を含む外交に関する論点の推移を追うことができる。

3. 1969年の沖縄返還交渉

 沖縄返還交渉については、文書を綴じたファイル・フォルダが複数作成されている。まず「沖縄交渉1」と「沖縄交渉2」のフォルダには、楠田が重視した1968年から69年にかけての文書が収められている。このうち「沖縄交渉1」には1969年1月頃から3月にかけての文書が綴じられている。注目したいのは、千葉一夫北米課長(のち第一課長)が官邸へ行った報告の記録と、大物外交官である下田武三駐米大使からの佐藤宛て書簡だ。いずれも官邸と外務省幹部のやり取りを示す貴重な資料である。このうち千葉は、1969年のはじめに沖縄問題交渉のスケジュール案を楠田に伝えて官邸と調整したうえで(F-1-69)、3月上旬に沖縄を視察し、米軍関係者の態度が復帰に向けて変化していたことなどの詳細を官邸に報告している(F-1-83)。
 下田駐米大使も3月7日付で佐藤に書簡を認め、「本土並みを原則とした上での暫定的プラス・アルファー」という表現で、沖縄返還の方式について進言した(F-1-81)。ここでの「本土並み」は、日米安保条約を沖縄に全面適用するという意味を含んでいると見られるが、さらなる検討が必要である。この下田書簡をめぐっては、下田が傍点をふった「本土並みを原則とした上での暫定的」の部分を重視すべきか、それとも「プラス・アルファー」(沖縄の基地の使用を別途保証する、特別取り決めを結ぶことだと解される)の部分が本音なのか、下田の真意について解題執筆者の間で見解が分かれた(楠田の後年の回想として、『政治記者OB会報』第60号1頁〔Y-5-5〕も参照)。いずれにせよ、書簡の署名部分は切り取られ、さらに楠田が文面を別紙に筆写して残していたことから、下田書簡が佐藤の重要な判断材料となったことは間違いない(F-1-82)。3日後の3月10日の参議院予算委員会で、佐藤は非核三原則を沖縄に適用する方針を示し、「核抜き・本土並み」返還の方針を表明することになる。
 「沖縄交渉2」のフォルダには、1969年4月以降の文書が収められている。交渉の「第一ラウンド」と言われた1969年6月の愛知揆一外相の訪米には、千葉課長が同行しており、千葉が官邸に行った報告の記録が残っている。6月の愛知訪米での交渉の様子と争点を正確に記した資料である。このとき日本政府は、返還後の沖縄の基地からの米軍の他国出撃について、朝鮮半島への出撃だけを、しかも憲法の許す政府の外交権の範囲内の表現でのみ認める方針だった。しかし、アメリカ側は台湾出撃とベトナム出撃の保証も要求してきた。記録には、千葉がブラック・タイのパーティーで、「ベトナムは駄目だよ」と述べ、フィン(Richard B. Finn)日本部長が非常に驚き、ブラウン(Winthrop G. Brown)大使が困惑したことが報告されている(F-1-92)。アメリカ側の反応からは、基地をめぐる日米の認識の差が分かる。
 その後、沖縄返還交渉は1969年7月のロジャーズ(William P. Rogers)国務長官の来日時の日米外相会談、8月から9月にかけての東京での外務省と駐日大使館の集中的な交渉を経て、9月の愛知訪米を迎える。「最終ラウンド」と言われたこの第2回愛知訪米についても、千葉が楠田に報告を行っている。Yのシリーズには、楠田の日々のメモが所収されており、9月17日の項に、千葉が交渉進展に焦る米軍部について報告していた様子が記録されている。メモには、軍・国防省が「あまり早くいかないだろうとタカをくくっていたので、あわてだした」とあり、さらには「核はダメ」と、なおも米軍部が核撤去に抵抗していたことも記録されている。またメモには、「ベトナム戦争やっている最中に出撃できなくなるのは困る」とあり、さらに「レアード(Melvin R. Laird, 国防長官)以下はロウバイした」とある。
 興味深いのは、千葉が楠田に米軍部の見解として、「あまり漠たるものなら、秘密とりきめをしたらどうか。例えば、B52にyesということを明記する― 核も同じ」と報告している点だ(Y-3-171)。「漠たるもの」とは、作成中の日米共同声明の文言のことである。共同声明では、日本政府が国会承認を必要としない表現で、沖縄の基地の使用について前向きな政策表明を行う方向で検討されていた。しかし、アメリカ側は共同声明の文言に満足しない場合、B52の沖縄からの自由出撃を認め、かつ核兵器の地上配備を認める密約を外務省に求めていた。この楠田のメモが重要なのは、米軍部がこうした密約を求めていたことを、首相官邸と外務省が情報を共有して、連携して対応していたことを示している点にある。
 従来、1994年に佐藤の密使若泉敬が回想録を刊行して、佐藤がバック・チャネルで沖縄返還交渉を行った印象が強まった半面、外務省の役割が低く見られるときがあった。しかし、「楠田實資料」から見えてくるのは、この見方に再検討が必要だということだ。第2回愛知訪米が行われた同じ9月には、若泉敬がホワイト・ハウスのキッシンジャー(Henry A. Kissinger)大統領補佐官から密約案を最終通告として求められている。若泉は帰国後、佐藤に対して繰り返し密約の必要性を説くが、佐藤は一向に動かず、若泉は苛立ちを募らせた(若泉敬『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス――核密約の真実〔新装版〕』文藝春秋、2009年、353頁以下)。
 この点、楠田のメモから判断すれば、佐藤はじめ官邸は、外務省ルートでも同様に核の持ち込みに関する密約が求められており、さらには米軍の出撃保証にまで密約の内容を拡大した要求が続いていたことを把握していた。すなわち佐藤は外務省での交渉を冷静に見極めるため、バック・チャネルの若泉の進言をすぐには受け入れなかったのだ。楠田の残した記録と他の史資料とを照合することで、沖縄返還交渉に関わった各人の動きの意味が明らかになってくる。そのほか楠田の衆議院手帖を辿ると、若泉や千葉が会う予定だった日を確認できる(Y-2-13)。
 ちなみに官邸と外務省のブリッジ役を果たした「仕事師」千葉は、柳谷謙介や中島敏次郎をはじめ戦後外交を担った外交官を多く輩出した、有名な昭和23年組(23年外務省入省)の一人である。千葉は1967年12月から1972年1月まで、約4年1カ月という異例の長さで北米課長(北米第一課長)を務めた。アメリカ局長だった東郷文彦が回想録を残した一方、千葉は生前、当時の詳細を語らずにこの世を去ったため、その足跡は資料などから明らかにする必要がある。「楠田實資料」からは、沖縄返還交渉で重要な役割を果たした千葉の行動をある程度蘇らせることが可能である。
 「沖縄交渉1」「沖縄交渉2」のほか、沖縄返還に関してはB5サイズの緑色の3冊のファイルがある。このうち一冊目は、アメリカ局北米課や条約局が残した沖縄の状況に関する文書集である。二冊目は、1968年8月から12月にかけて外務省アメリカ局北米課がまとめた、米大統領選挙や、1969年に発足したニクソン新政権に関する情報をまとめたものだ。三冊目は、沖縄に関する交換公文や了解覚書の閣議了解案などを収めたものである。上記のほか、日米繊維交渉に関する電報を集めたファイルが1つ、また日米関係に関する文書を所収した冊子・簿冊が4つある。
 F1とF2のシリーズには、ファイル・フォルダ・簿冊に綴じられた文書以外に、単独の文書が多く所収されている。数の多い外務省文書に関して言えば、アメリカ局(北米局)の文書と調査部の文書が大半を占める。「早耳の栄作」と言われた佐藤は、独自に内外の政治情報をよく集めていたことで知られる。しかし、「楠田實資料」の内容からは、佐藤の外交判断が、佐藤独自のルートの情報と、外務省などから官邸の楠田らに届いた情報を総合してなされていたことを物語っている。外務省文書のなかには、朝鮮戦争時の日本本土と沖縄の基地の役割を検討した調書など、未定稿のものとして官邸に届けられた文書もあり(F-2-1)、課内の検討プロセスを知るうえで大切である。官邸に残った外務官僚の作成文書は、当該期の外交史の奥行きを広げる資料である。

4. 米軍基地に関する検討文書

 沖縄返還問題の進展にともない、国会では今後の沖縄の米軍基地に対する関心が高まっていた。この点、楠田周辺の知識人・メディアグループも、沖縄の基地問題に関する政策討議を続けていた。「楠田實資料」には、沖縄基地問題研究会および安全保障問題研究会(F-2-70~88)の記録が所収されている。安全保障問題研究会の資料では、三好修によるものと思われる、在外米軍基地の縮小・削減案など、基地の整理縮小に対する検討文書が所収されている。また沖縄基地問題研究会には、東郷文彦アメリカ局長、大河原良雄参事官、堂之脇光朗北米課首席事務官ら外務省アメリカ局関係者が交代で参加していたことが分かる。楠田がこれらの資料を後年、綴じ直して保管していたことは、楠田本人の沖縄の基地の整理縮小に対する関心のあらわれでもあった。
 沖縄返還について言えば、1960年代後半の時期と比べて、1970年から1971年の沖縄返還協定調印に至る時期のアメリカ局の関係文書が少なくなる印象を受ける。1969年11月の沖縄返還合意後、千葉課長が楠田に引き続き報告を重ねていたのかどうかは未確認である。他方で楠田は、1970年を内政の年だと位置づけていた(第Ⅲ節参照)。楠田らは「70年安保」と沖縄返還協定承認という国会の最大の山場を迎えている。そのことを反映して、たとえば楠田が残した基地関係の資料として、第65回国会での社会党の楢崎弥之助による沖縄の米軍基地に関する質問に対して、アメリカ局が防衛庁に確認して準備した各部隊の説明答弁用資料や、沖縄に駐留していた第一海兵緊急派遣部隊、第七心理作戦グループ、第一特殊部隊群、米太平洋陸軍情報学校、VOA、SR71型機をめぐる当時の部隊状況に関する文書が残っている点が印象深い(F-1-299~305)。

5. 外務省調査部の資料

 楠田の元には、外務省アメリカ局やアジア局中国課だけでなく、外務省調査部(のち国際資料部)の文書が多く届けられていた(このうち日中関係の部分の詳細は、第Ⅴ節参照)。これは、楠田と岡崎久彦や村田良平ら調査部関係者との連携を示してもいる。岡崎と村田は外務省の昭和26年組(昭和27年入省)で同期であった。1971年7月のニクソン訪中声明は、日本外交に大きな衝撃を与えたが、岡崎久彦はナショナル・セキュリティ・アーカイブ(The National Security Archive)によるオーラル・ヒストリーで、ニクソン訪中声明後に外務省内で日米関係の再検討の議論があったことに言及している。このことに関連する外務省内の検討文書の一つとして、日本の再軍備と核武装の再検討の試みや総理大臣の訪ソ計画を含め、対米政策を「従順」「恩恵」「威嚇」の3要素を含めて推進することを論じた、調査部企画課の資料などがある(G-1-41,42)。
 これらはあくまで省内の検討段階の話であったが、他方で実際にニクソン・ショック後の外務省は、日米関係に関する率直な意見をアメリカ側当局へ伝えており、その情報も楠田へ届けられていた。たとえば1971年12月13日から15日に行われた日米政策企画協議では、森治樹事務次官らがジョンソン国務次官らに対し、来るニクソン訪中時の米中会談において、日米安保体制の堅持の方針を示し、尖閣列島についての日本の主張の擁護を行うよう主張しており、アメリカ側も厚遇して日本側に気を使いながら対応していたことが分かる(G-1-67)。
 さて、1972年5月15日の沖縄復帰記念式典についても、楠田は1965年8月の佐藤訪沖と同様、関係書類に厚紙の表紙をつけて白糸で綴じ、文書集にして保管していた(F-1-207~241)。また沖縄返還の祝辞に関する準備文書を見ると、柳田国男の『海上の道』を参考にして沖縄と本土とのつながりを説明したという書き込みがあり、政府内の祝辞の検討経緯を辿ることができる(F-1-327)。

6. 核兵器の問題

 F1とF2のシリーズには、沖縄返還に関する文書だけでなく、核兵器の問題や防衛政策など佐藤政権期の日米安保体制に関する文書も多く収められている。とくに1960年代には、アメリカの軍事技術の進展にともない、米軍の核兵器搭載艦船や、原子力艦船の日本への寄港という争点が国会でクローズ・アップされるようになった。佐藤内閣が1967年から1968年にかけて非核三原則を表明し、それが1971年には国会決議に至るなか、官邸が核兵器の問題についていかなる情報を必要としていたのかを知ることができる。
 「核持ち込み、安保」と楠田がタイトルを付した黄色のフォルダには、非核政策や事前協議制度など、核兵器をめぐる諸問題に対する政府の認識を記した27点の書類が綴じられている。当時社会党・共産党・公明党・民社党は、国会で原子力艦船や核搭載艦船の寄港や領海内通過の問題を追及していた。野党は「非核武装決議」や「B52の沖縄からの撤去決議」を求めていた。本フォルダには、こうした野党の政策構想に関して、非武装中立に対する反論文(F-2-35)や、非核宣言に反対する政策上の理由(F-2-37)などの立場を整理した文書も収められている。また社会党の集団安全保障論に対する反論文では、社会党のいう不可侵条約が、歴史上、最も守られていない条約である点が、ソ連の過去の事例を引き合いに出して説明されている。そのうえで、アジアにおける集団安保構想の非現実性や、日米安保体制を無視した不可侵条約による安全保障論が批判されている(F-2-27)。
 こうした反論文書は、国会で政府・与党が表明する認識の土台となった。各文書からは、国会での安全保障論議に対して楠田たちが相当の力を傾注して調べていた様子が分かる。また、政府側から見た、革新勢力の考えや主張を知る手がかりを提供してくれている。そのほか、佐世保にエンタープライズが寄港した1968年1月に北米局安全保障課が作成した、「米国原子力水上軍艦の本邦寄港承認に関する想定問答」には、佐藤本人のものと思われる書き込みがあり、佐藤が過去の経緯を把握して答弁に臨んでいた様子が分かる(F-2-3)。また同年3月2日の、松本善明(共産党)に対する総理答弁については、高辻正巳法制局長官の助言メモが残っており、内閣が内閣法制局と連携しながら政府見解を準備した経緯を把握できる(F-2-30)。
 官邸は、核兵器搭載艦船の行動に強い関心を持っており、このうち空母に関しては、核兵器を積んでいるのが明らかなのはICBM、SLBM、HB(重爆撃機)に限られ、空母は核装備からは外れている点を指摘した文書がある(F-2-42)。また1971年7月9日の佐藤とレアード国防長官との会談記録を見ると、日米が核兵器の持ち込み問題に敏感になっていた様子が分かる。レアードは、アメリカの機密保護法上、米原子力艦艇に対する放射能調査を50メートル以遠で行うよう求めたが、佐藤は国会との関係があり、核兵器の持ち込みという問題にも関連する機微な問題だと述べ、慎重な態度を示している(F-1-133)。
 佐藤にとって、核兵器の問題は国会で答弁を間違えれば、野党が勢いを得て世論の批判を浴びてしまうため、とくに慎重を要した。「楠田實資料」における核兵器問題に関する文書の多さも、そのまま官邸の関心の強さをあらわしている。そのほか、内閣調査室が1970年1月に作成した「日本の核政策に関する基礎的研究(その二)」も、中国の核兵器の脅威を前提とした、日本政府内の認識の一斑を知る手がかりとなり興味深い(F-2-95)。
 以上本節では、沖縄返還・日米関係に関する文書を中心に説明したが、取り上げていない重要文書が他に多くある点を付言しておきたい。たとえば、日中関係などに関する文書を所収したGのシリーズにも、ソ連や中国の問題が日米関係に及ぼす影響について言及した文書が所収されている。また楠田が後年、沖縄返還交渉をふり返った講演録(Y-5-4)や寄稿文(Y-5-5)も重要だ。
 沖縄返還・日米関係以外の外交分野についても、IとJには、東南アジア・台湾・韓国などアジア政策関係の文書やその他多岐にわたる外交文書が所収されており、また「楠田實資料」全体を通観すると、貿易・経済分野に関する文書も多い。楠田が手元の資料群を長年にわたり保管していた結果(第Ⅰ節参照)、佐藤政権期に関しては、首相官邸に集まった情報を後世に文字資料から辿ることが可能となった。幸運なことであると同時に、政権による過去の政策の透明性と信頼性という点でも、大きな価値があることだと言える。

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第Ⅴ節 日中関係

井上 正也(成蹊大学准教授)

1. Sオペと日中関係

 沖縄返還が佐藤政権の達成した最大の外交成果であるとすれば、中国問題は佐藤政権が挫折に終わった外交課題である。だが、そのことは佐藤政権が日中関係に無関心であったことを意味しない。楠田は外交案件のなかでも日中関係の資料を別扱いとして系統立てて保存していた。日中関係の資料は単独の外交案件としては、沖縄返還関連に次ぐ点数であり、佐藤政権にとって最重要の外交課題の一つであったことを示している。
 「楠田實資料」からは、楠田とSオペのメンバーが、佐藤政権発足前から中国問題を重視していたことがうかがえる。Eグループには佐藤政権発足前後のSオペ資料が収められているが、このなかに中国問題をめぐる資料が散見される。Sオペが最初の中国関連のレポートを佐藤に提出したのは1964年1月30日である(E-1-9)。その後、台湾を訪問したSオペメンバーの笹川武男による「台湾報告」では、「日本は中共にも国府にも義理や人情を感じることなく、日本の将来あるべき姿を冷静に描いて冷静に対処する必要がある」と突き放した姿勢を示している(E-1-10)。
 1964年7月の自民党総裁選に佐藤が池田に敗れた後も、Sオペは佐藤訪中を検討しており、また自民党代議士の久野忠治を通じた周恩来との会見計画にも関与していた(E-1-57)。同年11月の佐藤政権発足後も、楠田らSオペは佐藤側近である保利茂の訪中計画を進めており(E-1-88)、下田武三外務事務次官に相談をもちかけている(E-1-94)。
 しかし、日中関係に積極的であるSオペと、親台湾派との関係もあり日中関係に慎重な佐藤との温度差は大きかった。ベトナム情勢の緊迫化を背景に、日中両国はプラント輸出問題で対立し、結果的に日中関係は停滞状態に陥ることになる。政権発足前は最優先課題と見られていた中国問題は、佐藤政権の発足からわずか半年ほどで行き詰まり、代って沖縄問題が政権最大の外交課題として浮上してくるのである。

2. 中国問題をめぐる政策論争

 1967年3月、産経新聞社を退職した楠田は首席秘書官として官邸に入った。楠田は佐藤首相から「政策とマスコミ関係」の二つを任務として与えられたという(楠田實『首席秘書官』文藝春秋、1975年、41頁)。しかし、この時中国は文化大革命の混乱のただ中にあり、具体的な対中政策を考えられる時期ではなかった。
 1967年9月、佐藤の台湾訪問に楠田は同行している。「楠田實資料」には訪台をめぐる文書が多く残されているが、ロジスティクスや同行記者に関する文書が目立つ。秘書官就任間もない楠田の仕事は、主に外遊に際してのマスメディア対策に力点が置かれていたようである(J-4-1~78)。
 楠田は秘書官就任後も折に触れて中国に関する情報を収集していたが、中国問題が官邸において主要な外交課題として浮上するのは、カナダと中国が国交を回復し、国際連合において中国代表権問題の票決が切迫してきた1970年10月以降である。この時期の中国問題をめぐる文書の多くはGグループに収録されている。G1は中国政策をめぐる外務省作成文書が大半を占めており、とりわけ、アジア局中国課と国際資料部(1970年12月21日に調査部と改称)が作成した文書が目立つ。
 「楠田實資料」からは、当時の外務省内における中国課と調査部との間の政策対立を見てとることができる。この時期、日中国交正常化のためには台湾断交をやむなしと考える中国課に対して、台湾の戦略的価値を重視する企画部は、台湾断交は将来的な中国の台湾支配につながると警鐘を鳴らしていた。「楠田實資料」には、1970年12月に香港で開かれた中国政策をめぐる外務省関係者の会合についての二つの報告が含まれている。一方は橋本恕中国課長が作成した「中国問題に関する報告」(G-1-20)で、日中国交正常化を実現するためには最終的には台湾の国民政府との断交に至ることになるという「一つの中国」論を強調している。他方は加藤吉彌調査部企画課長の「出張報告(中国問題)」(G-1-21)であり、間接的な表現ながらも、段階的に「一つの中国、一つの台湾」の現実を固めていくことを志向している。
 「楠田實資料」で興味深い点は、中国問題の主管課であるアジア局中国課よりも、調査部からの文書が多く含まれている点である。調査部は元来中ソ対立など共産圏の分析を行なうために設立された。例えば、「楠田實資料」には調査部分析課による中ソ対立分析や、ブレジンスキー(Zbigniew Brzeziński)などの有識者へのヒアリング(G-2-1~20)といった調査分析に関わる文書も多く含まれている。だが、この時期、調査部は地域局による縦割りを越えて、総合的観点から外交政策を構築する政策企画組織への脱皮を目指しており、政策提言を積極的に行っていた。沖縄返還後の外交課題として新しい中国政策を模索していた楠田は、調査部にいた岡崎久彦ら戦略的思考を重視する気鋭の官僚たちの意見を尊重した。それは彼らにとっても、官僚機構の階層を飛び越えて、自らの政策案が首相に直接届く貴重な機会であったといえよう。
 しかし、1971年7月のキッシンジャー訪中によって、中国問題をめぐる国際情勢は、楠田や調査部が想像するより早く動き始める。「楠田實資料」には、ニクソン・ショック直後の牛場信彦駐米大使からの本省宛公電の写し(G-1-38~40, 105)や、調査部の米中関係と日本の外交施策に関するレポート(G-1-41~42)が収められている。これらの文書からは、楠田が米国の動向を探ろうと懸命に情報収集にあたる姿がうかがえる。
 ニクソン・ショックの衝撃覚めやらぬなか、佐藤政権が決断を迫られたのは国連中国代表権問題への対応であった。「楠田實資料」には国連局政治課を中心とした国連中国代表権の動向に関する文書が多く収録されている(G-1-30~31, 34~37)。佐藤政権が目指したのは、中華民国の国連議席を維持するために、国連における中華人民共和国と中華民国の「二重代表制」決議案を可決させることにあった。しかし、米中接近によって、佐藤政権は世論の厳しい逆風を受けることになる。かつて総理秘書官を務め、楠田と親しかった本野盛幸でさえも、この頃楠田に米国の政策転換が既に明らかになった以上、佐藤政権はこれまでの台湾重視政策に固執すべきでないと意見を送っている(G-1-46)。
 「楠田實資料」からは、佐藤政権が、対中政策を変更した米国に不信感を抱きながらも、最終的に台湾の国連議席を保持するために、米国の共同提案国になる決断をする過程がうかがえる(G-1-47~63)。その他、「楠田實資料」には衛藤瀋吉東京大学教授からのヒアリング記録(G-1-85)や、保利書翰(G-1-93)、愛知揆一外務大臣の草稿(G-1-94)なども含まれており、中国政策をめぐる政権関係者の動きを知る手がかりとなる。
 これらの外交関係の資料の中でも興味深いのは外務官僚から楠田に宛てた私信であろう。こうした私信は、公文書には見えない外交官の本音や感情が綴られている。例えば、中国の国連加盟が決定した後の11月、橋本恕中国課長は楠田に対して、佐藤首相が「国際信義を守り云々」という表現を用いることは、「二つの中国」を目指していると理解される恐れがあると指摘している。そして、「二つの中国」の立場を表面化させないことが、「二十年近く中国問題と、取り組んでき[た]小生の切なるお願いです」と結んでいる(G-1-64)。後に田中政権下の日中国交正常化において大きな役割を果たす橋本であるが、楠田に対しても度々中国政策をめぐる持論を率直に綴っていたことが分かる。
 中国政策は台湾問題の処理や国内政局と深く結び付いた難題であった。楠田は中国に関する情報を外務官僚から直接収集し、佐藤首相の判断材料になる情報を上げ続けていた。「楠田實資料」は、公刊されている『佐藤榮作日記』(朝日新聞社、1997〜1999)や『楠田實日記』と併せて読むことで、官邸のミクロな情勢判断と政策決定過程を再現することが可能となる。それはこれまで消極的と評価されがちであった佐藤政権の対中国政策にも新たな光を与えることになろう。

3. 国際関係懇談会

 楠田は秘書官在任中に自らの課した役割の一つとして、知的世界の人々と佐藤首相をつなぐ「コーディネーター」を務めていたと回想している。実際、楠田は知識人に佐藤政権の課題や政策の方向性などを説明して意見聴取し、それらを文書にまとめたり口頭で佐藤首相に伝えていた(楠田實「啐啄同機の政治」『楠田實日記』884頁)。
 「楠田實資料」にはこの知識人から意見を聴取した記録が数多く収められている。楠田が助言を求めたのは、物価問題や土地問題、さらには施政方針演説に対する意見など政務全般に及んでおり、知識人も江藤淳、安岡正篤、中山伊知郎など多岐に及ぶ。なかでも、未来学の先駆者として知られた坂本二郎元一橋大学教授からの意見聴取はかなりの分量を占めている(H-2-38~61)。記録の大半は外交・防衛問題であり、若泉敬、佐伯喜一などの名前を見出すことができる。また、米中接近の前後の時期からは中国問題が目立って増えている。とりわけ、ニクソン政権の対中政策の動向について、楠田は著名な国際政治学者や中国研究者に精力的に意見聴取を行なっている(H-1-5,H-1-8)。
 楠田が果たしたコーディネーターの役割として最も知られているのは国際関係懇談会である。この懇談会は中嶋嶺雄、高坂正堯の両名を常任世話人に内閣官房長官の非公式諮問機関として発足した。楠田はそれまでも政策問題勉強会など有識者会合を開いていたが、1971年5月に中嶋の発案で有識者による中国問題委員会を組織することになった(H-1-13)。この中国問題委員会がニクソン・ショック直後の1971年8月に国際関係懇談会と名称変更され、13名の委員によって発足したのである。
 「楠田實資料」からは懇談会の発足に至る過程を追跡することが可能であり(H-1-13~19)、また懇談会の速記録も収められている(H-1-1~11)。国際関係懇談会については、これまでにも楠田や中嶋嶺雄の回想によってその存在は知られていた。だが、懇談会での議論の内容についてほとんど不明であり、本資料が初めての公開となる。なかでも興味深いのは、竹下登内閣官房長官や木村俊夫内閣官房副長官が、委員に対する情報提供として、政府の中国問題をめぐる進展状況を説明している文書である。とりわけ、第二回懇談会では竹下は日中関係の方針について予算などの国会日程などを絡めて分析しており、佐藤政権末期の官邸が政治日程と勘案してどのように日中関係の展開を考えていたかがよく分かる(H-1-1)。
 しかし、国際関係懇談会は、国際情勢が急速に変化するなかで、目立った役割を果たせず佐藤政権の退陣を迎えた。田中政権の成立後も、懇談会は外交一元化の名目で外務省に移管され暫く継続されたが、急速に日中国交正常化へ向かうなかで事実上の立ち消えになったという(中嶋嶺雄『「日中友好」という幻』PHP新書、2002年、98頁)。実際、「楠田實資料」に残されている速記録も、1972年6月が最後である(H-1-11)。
 国際関係懇談会は、楠田が期待した大きな役割を果たせなかったが、Sオペ以来、楠田が目指した知識人と政権をつなぐコーディネーターの集大成ともいうべき計画であり、その後の政権で続々と現われるブレーン政治の嚆矢ともいうべき存在であった。「楠田實資料」は、未だに実証研究が十分に進んでいない佐藤政権のブレーン政治の実態を解明する上でも有用であるといえよう。

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