解題 執筆時期は昭和17年20日頃から翌年3月末日までと考えられる(山内祥史「解題」(『全集第五巻』90・2)参照)。また、執筆事情については、津島美知子『回想の太宰治』の「「右大臣実朝」と「鶴岡」」の章に詳しい。
本文に用いられた黒ペン以外に、青鉛筆、赤鉛筆、鉛筆、赤ペン、黒ペン(本文のものとは異なる)の5種類の書き込みがある。このうち赤鉛筆は編集者による割り付けで、仮名遣いの訂正等も含む。青鉛筆も同様の性格のもの。これ以外に、さらに鉛筆で訂正を施した跡も見られる。なお、部分的に「富士」「には」「月」「見」「草」「が」「よく」「似」「合」「ふ」という文字が切り取られているが、これらは御坂峠の文学碑の碑文を作成するときに用いられたものである。
ノンブル38には張り紙があるが、こうした訂正は太宰の原稿にあっては珍しい。張り紙の下の当初の表現は、「〔人〕家モ姿も暗イウチハ滅亡セヌ。ア〔カ〕カルサハ、ホロビノ姿カ。」。これをさらに「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、〔国□〕暗イウチハマダ滅亡セヌ。」と書き改め、その上に張り紙がされ、最終的な形に改められている。このほか、ノンブル33、68、89、336、338等にも大きな加筆訂正が見られる。これらの多くは皇室にかかわる表現で、時局をおもんばかってのものと考えられる。
なお、ノンブル178上欄にかなりまとまった抹消表現があるので、掲出しておきたい。
〔でございます。そのやうな遠い京の都の、ほとんど雲上の□□□人の〔□〕姫さまをお迎へなさつたのは、その折の将軍家に於かれましては、ただぼんやりと京風のあ□□□さをお慕ひなされて、謂はば霊感に依つて是非とも御台所は、京都の方をとおつしやつた御様子でございましたけれども、また更に失礼ながら愚考いたしますると、もうこの時に御台所さまを京都上りだ□ず、姫さまの御家人のお娘の中から御選定なされたな□□□□□結果になり、御外戚のわづらはしさ、将軍家もお小さい頃から、れいの北條氏と〔□〕比企氏との対立などについても、□□□□での□□る、□□や□な〕
原稿と初版本文との異同は句読点、表記に関わるものが大半だが、ノンブル28の「またかしこくも仙洞御所さまを御自身の尊い御手本となされて、しんからお慕いなさつて」の部分が、「またかしこくも、御朝廷の尊い御方々に対し奉つては、ひたすら、嬰児の如くしんからお慕ひなさつて」と改変されている。ゲラで手を入れたものであろう。
(安藤宏)
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