太平洋戦争の後、日本近代文学の研究がさかんになるとともに、関係資料の保存整備についての意識が高まりました。関東大震災や太平洋戦争の戦災、その他の災厄に遭って、これらの資料が著しく散逸したことから、収集、保存、整備の必要性が叫ばれはじめたのです。そこで、高見順、川端康成、伊藤整ら文学者たちと、稲垣達郎、小田切進ら研究者たちが協力して、文学資料を収集・保存する施設の必要を広く訴え、文学館設立の機運がたかまりました。その動きは大きな反響を呼び、1963(昭和38)年の財団法人発足から数年の準備期間を経て、1967(昭和42)年4月、東京都目黒区駒場に、日本近代文学館が開館しました。
 以来50年にわたり、明治以降の日本文学全般にわたる資料を収集、保存し、研究者の閲覧に供することを事業の中心に据え、日本近現代文学研究に重要な役割を果たしてきました。そこには、多くの文学者、研究者、文学や書物を愛する人々と、出版社、新聞社はじめ各界からの信頼と協力が寄せられてきたことはいうまでもありません。
 収集資料の多くは図書、雑誌、新聞ですが、それらのほかに原稿・書簡・筆墨・日記・ノート・遺品など特別資料と呼んでいる資料約8万点を含み、総数約110万点に及びます。その大部分は著者またはその遺族、出版社などからの寄贈(一部寄託) によるものです。
 また、毎年「夏の文学教室」(よみうりホール)、文学者の自作朗読の会「声のライブラリー」(館内ホール)、講座「資料は語る」、大学院生などを対象とした「文学館演習」などユニークな文学イベントを開催しています。さらに主として学校・図書館・研究者向けに、書籍や電子媒体にて研究資料を刊行しています。2011年6月には公益財団法人の認定を受け、日本近代文学に関する総合資料館、専門図書館として文学資料の収集・保存・公開と文芸・文化の普及・発展のために、活動を続けています。

 太宰治は、1909(明治42)年青森県北津軽郡金木村に生れ、旧制青森中学、弘前高校を経て東大仏文科へ入学。1936(昭和11)年に最初の作品集『晩年』を刊行し、ほかに「ダス・ゲマイネ」「お伽草紙」「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」など数々のすぐれた文学作品を生みました。その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派とも称されましたが、1948(昭和23)年玉川上水で入水自殺。享年39歳でした。全集・作品集が何度も編まれ、6月19日の「桜桃忌」には多くの文学ファンが集うなど今なお人気は絶えません。
 残された原稿や蔵書等の貴重資料のうち、1987年に太宰治夫人津島美知子氏より「正義と微笑」「斜陽」「人間失格」などの原稿30点のほか、中学・高校時代の同人誌、初出誌、初版本などを含む233点が日本近代文学館へ寄贈され、さらに1998年に「人間失格」などの草稿が追加寄贈されました。これらは「太宰治文庫」として大切に保存されてきました。
 日本近代文学館の太宰治関連資料はこの太宰治文庫の他にも、ドナルド・キーン氏をはじめ多くの方から寄贈を受け、さらに2013年春、旧制青森中学・弘前高校在学中に書いた日記や授業で使用したノート・教科書など22点が同館に寄贈され、いっそう充実したものとなりました。