解題 昭和12年頃「文芸春秋」への発表を予定して執筆され、掲載されなかった原稿の一部と推定される。のちに『懶惰の歌留多』(「文芸」昭14・4)に書き改められた。原稿は損傷が激しいが、美知子夫人によって補修され、難読箇所の書き込みがある。『全集第10巻』(昭52・2)に、「『懶惰の歌留多』草稿断片」の表題で収録され、『全集13』(98・5)に『背徳の歌留多』として抹消跡も含めた翻刻が掲載されている。
太宰自筆の創作年表(『全集別巻』92・4)には、「昭和十二年」の頁に「未発表 創作/悖徳の歌留多/文芸春秋 21/(佐々木茂索)」と記載された上で抹消されているが、美知子夫人は『回想の太宰治』において、この抹消跡は『懶惰の歌留多』に改稿後に付けられたものであろうと推測している。また、執筆時期について、「創作年表の昭和十二年の十月と十二月の間に記載されていて、インクの色、書体などから、この記載通りの時期に、荻窪の下宿鎌滝方で執筆したと考えられる。」としている。さらに『懶惰の歌留多』との異同に関して、同書は「旧稿の二十一枚が新稿では三十五枚にふえている。まず旧稿では前置きがなくすぐ「い、生くることにも――」と書き出しているのに、新稿ではその前に九枚余の前置きを書き足している。全文では十何枚増加した。自然に増加したというより「文芸」編集部からの注文に沿うために意識して増したのであろう。」としている。
なお、「太宰治文庫」のものとは別に、美知子夫人によって保管されていた別系統の切片2枚が存在しており、『全集13』(98・5)の「解題」に翻刻されている。(安藤宏)
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