解題 昭和13年8月頃「文芸春秋」への発表を予定して執筆され、掲載されなかった原稿の一部と推定される。のちに書き下ろし単行本『愛と美について』(竹村書房、昭14・5)に収録された。18枚のうち6枚は損傷が大きく、美知子夫人によって補修され、難読箇所の書き込みがある。
『全集第10巻』(昭52・2)に「『花燭』草稿断片」として収録され、『全集13』(98・5)に抹消跡も含めた翻刻が掲載されている。
なお、津島美知子『回想の太宰治』は、この草稿に関して次のような考察を加えている。
枚数については、旧稿の書き出しには章分けの「一」が入っていないところから、旧稿は新稿のように、三章に分れていないこと、従って改作に当たって枚数を増したことが推測される。私は旧稿は三十数枚であったのを、改作するとき十何枚か増して、新稿の「花燭」四十八枚が成立したことと、新稿の「二章」は全部昭和十四年のはじめに新しく書き加えた部分で、つながりよくするためにその前後も書き改めたこととを推定している。
「花燭」の旧稿執筆の時期は、この三篇の中では一番あとではないかと思う。その根拠の一つは使っている原稿用紙で、上記二篇が四百字詰用紙に書かれているのに「花燭」は二百字詰用紙で、これは上記「火の鳥」の原稿反古と、御坂峠天下茶屋から発信した書簡二通と同じマークの用紙である。
また、原稿の執筆時期について、山内祥史は「解題」(『全集第二巻』89・8)において、次のような考察を加えている。
もし、長尾良のいう「華燭について」が「花燭」になったのなら(注―長尾良『太宰治その人と』(林書店、昭40・6)の内容を指す)、「姥捨」脱 稿後の昭和十三年八月中旬に起筆されたものだろう。井伏鱒二宛の昭和十三年八月十一日付と同年九月二日付けとの手紙で、「姥捨」脱稿後「すぐ、文芸春秋に送」ろうと起筆し、八月末にいったん書き上げ、九月に入って「はじめから書き直し」て、「十日頃までには、浄書してしまはうと思つて居」ると記している原稿が、「花燭」だったのではないか。(略)もし、この時「文芸春秋」に送った原稿が「花燭」だったとすれば、それは、「旧稿」ではなく、「新稿」であったのではないか。「新稿」で書き加えられた「二」に、つぎのような一節がある。
去年の秋、私の姉が死んだけれど、家からはなんの知らせもなかった。
この一節は、昭和十二年春の姉あいの死を踏まえた記述と推定される。また、書き下ろし短編集の原稿について報告をした、昭和十四年二月四日付井伏鱒二宛手紙に、「原稿百五十枚は、すぐそろひました。」とあるのが事実なら、それは、「火の鳥」百三枚と、「花燭」四十八枚とではなかったか。昭和十三年九月三十日付井伏鱒二宛葉書に、「文芸春秋の庄野氏から、原稿なるべく載せるやうにするとの返事まゐりました。」とあるが、結局載せられず、昭和十四年二月四日の時点では、手許に還っていたのであろう。(安藤宏)
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