◆書誌解題◆
56 細胞文芸 7月号
書誌情報
「細胞文芸」第1巻第3号 発行:昭和3年7月1日 編集兼発行人:弘前市富田新町57藤田方 津島修治 発行所:弘前市富田新町57藤田方 細胞文芸社 4, 78頁 220mm 
解題
 「細胞文芸」の第3号。太宰が執筆したことが確実なのは「股をくゞる」(署名「辻島衆二」)、「編集後記」(署名「辻島」)の2編(いずれも全集に既収録)。同人欄は富田弘宗・辻島衆二・中西六三・南部農夫治・上田重彦・松本繁・三浦正次の7名に増えているが、このうち上田重彦(のちのペンネームは石上玄一郎。当時の弘前高校の左翼学生のリーダーでもあり、また文学的才能も太宰より注目されていた)は言を左右して入らなかったとも証言している(石上玄一郎『太宰治と私 激浪の青春』集英社、1986・6)。
 執筆者のうち、太宰が原稿料を出して依頼した中央の新進作家は藤田郁義、舟橋聖一、崎山猷逸、太田誥一。なお、この号で注目すべきは比賀志英郎の「彼」で、「編集後記」に「モデルの興味より採りしのみなるを断り置きたし。比賀志は編者の親友なれば・・・」とあるが、その「モデル」は明らかに「細胞文芸」の編集をしている太宰自身である。相馬正一は「太宰治 〝発見〟された十九歳の自画像」(「新潮」平15・9)においてさまざまな角度から検証を行い、執筆者を太宰本人と推定している。明らかに太宰自身しか知り得ぬ情報が描かれていることも含め、今後のより詳細な検討が待ち望まれる。
 なお、結果的に「細胞文芸」はこの次の4号で廃刊となるが、この体験は太宰に深い挫折感をもたらし、かなりデフォルメされた形でのちの小説「猿面冠者」(「鷭」昭9・7)の素材にされている。(安藤宏)